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アレルギーを越えて。        あなたらしい生き方を。

- 当会のご紹介-
当会は、私たち患者自身が運営をする中、アレルギー専門医の70名を超える、顧問の先生方のご支援を頂きながら、

55周年を迎える事ができました。

喘息の患者会として立ち上がり、アトピー性皮膚炎、食物アレルギーの3部門で患者による患者の為のサポート活動をしております。

専門医の先生方の講演会はじめ、行政への働きかけまで、幅広く「声」を届けるべく邁進している患者支援団体です。


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「あおぞら」掲載記事

当会の「月刊誌 あおぞら」に掲載されました記事をご紹介します!

                             (東京都にお住まいの高校生)

0才でアナフィラキシーを起こし救急車へ

私は都内在住の高3。アレルギー歴イコール年齢、つまり生まれてからずっとアレルギーと共に生活しています。

通常、食物アレルギーの子は小学校卒業までには治ると聞いていますが、私は未だにアレルギーっ子の看板が外せていません。

アレルギー(卵・乳)発覚は離乳食の時期で、初めて救急車に乗ったのは、アナフィラキシーを起こした時だそうです。

でも、そんな私も無事に18歳まで育っており、毎日楽しく学校生活を送っています。

確かに色々な苦労はありましたが、家族や友人などの協力で乗り越えてきました。

みんなと違う色のトレーと目印の旗付給食

保育園はあまり記憶にないのですが、アレルギーに完全対応してくれる保育園でしたので、非常に恵まれていたようです。

卵入りのメニューについては、皆のとは別に卵除去で調理、どうしても除去不可能な場合は見劣りしないものをわざわざ作ってくれていました。トレーの色が皆と違っていたこと、そのトレーにはいつも目印の旗が乗っていたことを覚えています。

アレルギーに関係することで、非常に印象的だったのは、卒園式の後、母が給食を作ってくれる方々を前に頭を下げ、号泣していたことです。

「本当にありがとうございました。」と言いながら。

姉や私が受験で合格した時も、小学校や中学校の卒業式でも泣かなかった母が号泣していたということは、余程私の食事作りの一端を担ってくれていたことに対して感謝していたのだと思います。

小学校では卵と乳を除去した給食に近いメニューを持参

ここからは、大分事情が違ってきます。

保育園は児童福祉施設ですが、小学校は義務教育を受けるところ。主に勉強をするところであって、親に代わって面倒を見てくれる場所ではないのです!

従って、給食での対応は除去のみ。除去不可能なものについては家で作って持って来て下さい、となりました。一ヶ月前に献立のリストを貰い、卵と乳と書いてあるところにマーカーをひき、どういった対応をするのかを書き込んで学校に渡す。

例えば、エビフライのところには当然卵が書いてあるので、親はそれにマーカーをひき、持参と書き込む。そして当日は卵なしで調理したエビフライをタッパーに入れて持っていくといった感じです。

 卵と牛乳など、使わない日なんてそうありませんので、リストはマーカーだらけでした。但し、高学年になる頃に突然乳の数値が下がり卵だけの対応になってからは、少しだけですが、マーカーは減りました。

私の体と心を守ってくれた親に感謝

私は学童に通っていたのですが、夕方のおやつの時間が非常に苦痛でした。

小学校以上に対応は望めないわけで、おやつは学童側からの提供はなし。毎日何かしら、皆が食べるものに似た、且つ私が食べられるものを持って行っていました。

毎週末、一週間分のおやつを親と買いに行くのがとても楽しみでした。 親はなるべく皆と同じようなものを、と思ってくれており、行事でドーナツが出る、と聞けば開店と同時にタリーズでドーナツを買って、それを持たせてくれたりしていました。

今でこそ色々なところで卵なしのドーナツを販売していますが、当時はタリーズのオーソドックスなドーナツしか卵なしはなく(母リサーチによる)、しかも家の近くの店舗には毎朝3つしか入荷しないということで、他の人に買われてはなるものかと、開店と同時に買っていたそうです。皆と違うものではあれど、同じようにドーナツを頬張れた時は、嬉しくて仕方がありませんでした。

このように、私の体だけではなく心も守ろうとしてくれたことについて親には非常に感謝しています。

中学校~給食からは解放されたが

さて、ここからは中学校時代です。

私は中学受験をし、私立の中学校に通っていました。私自身がそうしたかったのもありますが、親としても私立が良かったようです。

公立ですと給食なので、また3年間給食の時間に寂しい思いをさせるのは忍びなかったのでしょう。私立でしたらお弁当のところがほとんどですから、給食問題についてはほぼ解決!確かに、私の生活から「給食」というものが消え、学校にいる間はほぼアレルギーを意識することがなくなりました。

 ですが、一難去ってまた一難、中学校になると交友関係も行動範囲も飛躍的に広くなり、それに伴って親以外との飲食の機会が劇的に増えたのです。学校帰りや休日に、友人とは色々なところに出掛けました。そして色々なお店に入りました。ですが、中学生女子の食べたいものなんて、スイーツがほとんど。そしてスイーツと言えば卵が入っていないものを見付ける方が難しいので、みんなが何かを食べている中で私はジュースだけ、ということもしょっちゅうありました。それでも、友人といられる嬉しさの方が、「食べられない」ことによる歯痒さを上回っていたので、小学校の給食の時のような寂しさは、あまり感じなかったように思います。

 あと、宿泊を伴う校外授業の際の食事についても、小学校とはかなり学校側の対応が違うなと思いました。小学校の時は家庭と学校と宿泊先が一緒になってメニューについてやり取りをしていましたが、中学校では、宿泊施設と直接連絡を取って下さいとのことでした。

エピペンも、小学校では2本持っている内、先生が1本持ってくれていましたし、打ち方についてもご存じだったと思います。中学校では、当然かもしれませんが、いつも自分で2本持っていました。 このように、給食からは解放されましたが、自分で身を守らなければならないことを意識することが増えてきました。

現在~時代の流れを味方に付けて

そして現在、高校3年生ですが、中学生の時より更に行動範囲は広がり、友人と一緒に食事をする機会も一段と増えました。

食事とは言っても高校生ですのでチェーン店に行くことが多いのですが、チェーン店ですと大体アレルギー表があるのでとても助かっています。

アレルギー表さえあればジュースだけということはなく、何かしら食べるものはあります。

何より、子供ではないので店員さんに細かく質問することができますし、例えばサラダのドレッシングをサウザンから和風に変更して欲しい等、こちらの要望を伝えることができます。少し面倒くさくはありますが、友人との楽しい時間を過ごすため、また自分の身を守るために必要なことだと理解しています。

 あと私個人の感覚ですが、3年程前からでしょうか、ヴィーガン対応のお店がかなり増えてきているような気がします。3年前というと東京オリンピック(2021年)の年ですから、海外からの観光客対応というのがあったのかもしれません。ヴィーガン対応のお店には沢山行きましたが、最近のヴィーガン食は、普通食と比較しても全く引けを取らないようです。

家族曰く、最初にヴィーガン対応のお店に行ったのはもういつだか忘れてしまったが、その時よりも明らかに味のレベルが上がっているとのこと。国際化への対応の一つでもあるヴィーガン食ですが、アレルギーの私も最新の注意を払いながら利用し、美味しいものを沢山味わいたいと思っています。

 思い付くままに私とアレルギーの関わり方を書いてきましたが、如何でしたでしょうか?確かにアレルギーがあると不便です。ない人よりは命の危険もあります。でも毎日が楽しい。 私はこれからも、アレルギーの陰に隠れないで、楽しく生活を送っていこうと思っています。 こう思えるように育ててくれた家族に感謝!

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