家族の手記

「ひまわり」会員から寄せられた手記を紹介します。

在宅介護生活10年

愛知県 N.S  

 今年娘にとって、とても嬉しいことがありました!! それは週2回利用しているデイサービスで、9月からトロミをつけたお茶を経口摂取して頂ける様になったことです。今までは胃ろうからシリンジで水分補給をしていただいていました。一年ぐらい前からお願いしていましたが、施設では「胃ろう、気管切開をしている方に口から物を摂取したことがないので、できません」と断られました。 実は気管切開しているのは、うちの娘だけです・・・  

 看護師さんに吸引など医療的なケアはやって頂いています。主任さんが「夏にはお茶を飲める様にしてあげたいね」と声をかけて下さいました。その後、毎週来ていただいている言語聴覚センターの先生に文書で手紙を書いていただきましたが、実際に指導を受けたいと苑の方からいわれましたので、先生にお願いしました。7月30日、苑にて先生と一緒に口からお茶を飲みました。体をリラックスさせる車イスの角度、あごが上がらない様にする、トロミ形状はポタージュ状で100㏄、スプーンの入れ方、量、しっかりゴックンを確認することなど見ていただきました。娘はちょっと緊張していましたが、上手にゴックンと飲めました。 皆さんびっくりされました。よかった、笑顔、笑顔・・・・

 やっと9月からOKが出ました。連絡帳に毎回今日も100㏄上手に飲めましたと記入してあります。やったね・・・・ 苑の協力もありまして、娘が口から食べたいという要望をかなえてやることができて本当に嬉しかったです。ありがとうございました。11月末に訪問歯科の先生が二か月ぶりに来て下さいました。口の動きがいいね、飲みこみのゴックンがしっかりできてるよ、舌の動きも良くなってきました。口腔ケアは続けることが大事ですね。これからも少しづつですが、頑張っていきたいです。 

今なお、母に力をもらうこと 

愛知県 K.W.

 はじめまして。秋ごろより、ひまわりに入会させていただきました   

  私の母 (71歳) は本年4月1日にくも膜下出血で倒れ、藤田学園保健衛生大学病院で一命を取り留めたものの、以後ほとんど四肢麻痺と気管切開で言葉も話せません。 

 6月半ば過ぎより2つの病院に転院しましたが、 9月末にご主人が働きながらの在宅介護を決意、現在は病院ではなく自宅で暮らしつつ週4回「憩いの庄」(名古屋市緑区篭山西)というデイサービスに通っています。

  1. 医療依存度の高い人でも、在宅医療を提供くださる、「あいち診療会」(名古屋市天白区)の24時間訪問看護のサポートがあり、また、
  2. 自宅で、働きながら母を介護してくれているご主人がいてこそ この在宅生活は成り立っています。  

写真:4/25 初めての散歩



  • 2匹の猫と、夫婦の暮らし。そして、動けないながらも「家という生活の場」があって、デイサービスという「行くところ」がある。リハビリ、訪問歯科、また、食べられるようになるよう、週一回嚥下訓練、砂糖水やお水をスプーンで飲ませてもらい、表情も豊かです。 
  • 「一日も休まずリハビリも、がんばりやさん!」とケアマネさんやスタッフの方々。 最悪の不幸な出来事のあと、進歩は遅いけれど、すこしづつ「前向き展開」生活がはじまりました。

 ・・・・母の笑顔が、バラバラな生活の私たち3姉妹にとって、そしてきっと、多くの病者にとっての「希望の灯」となりますように!! 



写真:10月半ば・夕方。デイサービスにて

入院から在宅介護まで 

三重県 A.N 

息子は富山県で学生生活を送っていました。

  平成11年8月19日、戸外での作業中に倒れ「熱中症」と診断されました。

 発症してから実質的な治療を受けるまで9時間ほど経過し、3か所目の病院でやっと適切な治療を受けることができました。

 救命率10%との医師の宣告に私たち家族は、なんの手を差し伸べる事も出来ず「どうぞ息子が助かりますように」と念じながらひたすら祈るばかりでした。多臓器不全となり、昏睡状態が続くなかであらゆる治療を受けました。その後1ヶ月位で開眼する様になりましたが意識は回復しないまま、いわゆる植物状態となりました。病態が安定し5ヶ月後に三重県の自宅に近い病院に転院できました。三重県では6施設の病院を転院しました。病院でのリハビリは限られた時間であり、看護師の関わりも急性期の患者さんや緊急患者が優先されるため家族の望む看護ケアには限界がありました。入院中は毎日家族の誰かが訪れ息子に対し、声かけと四肢の屈伸運動を行いました。視覚はさだかではありませんが、音は感じているようで家族が声掛けをしていると表情が穏やかになっていました。

 在宅介護に向けてデイサービスを受けるための準備をしていた時に、思いもよらぬ出来事にショックを受けました。ハード面ではそれなりに設備の整った社会福祉協議会が運営している施設で、利用前の面談時に息子の状態を詳しく説明し、その結果施設側が了解されて自宅まで送迎をするとの返事をいただいたので安心していました。息子に対しては、退院後はデイサービスを受けることを説明し「その場所を知っておいた方が良いだろう」との思いで施設訪問しました。車椅子に乗っている息子を施設の方に見て頂き、本人もその施設の雰囲気を感じ取った事であろうと安心しました。ところが後日施設の方から「介護要員が少ないので無理です」との連絡が入りました。・・・・・そんなバカな!!との思いで施設の対応に怒りを覚えました。リクライニング仕様の車椅子と息子の様子を見ての回答であったのでしょうか?「あれ程に詳細な情報を提供してくれたのに今になって」との思いで心が痛みました。その後対象となる施設を探し、平成20年12月16日に退院。現在民間の施設を利用しています。この施設職員の方々は障害者に対する対応も丁寧でやさしく関わっていただくので安心しています。

 現在受けているケアは、訪問理学療法・訪問マッサージを各週2回、デイサービス週2回(入浴を含む)です。表情は入院中と比較してみると随分豊かになった様に思います。自宅では、家族による身体のリハ、口腔リハを主とした口腔ケアを中心に関わっていますが、家族のなかで共に生活し声掛けしている事が刺激になり良い表情を表してくれています。息子が、うなっていたり顔をしかめている姿を見ると心配し、笑っているのを見て安心したり・・・・と日々の変化に戸惑いつつ楽しんで介護を行っている現在です。


 

~家族旅行記~

 自宅の車で時々外出をしていますが、今回初めて公共交通機関を使用し遠出しました。

  茨城県つくば美術館で、知り合いの方の個展を観ることが目的で2泊3日の旅行に出かけました。 自宅からは3人で、東京駅で息子の姉と合流し4人で旅をしました。近鉄、新幹線、山手線、つくばエクスプレスと何度も乗り換えましたが、それぞれの列車については事前に問い合わせと予約をしておいたので、各乗り換え時は駅職員の方々 が親切に介助してくださりスムーズに乗り換え ができました。

 近鉄特急の車椅子席はアーバンライナーが広く確保されているので快適でした。新幹線の場合は、車椅子席が狭くリクライニングにする事が困難なので多目的室を予約しておきました。他の利用者に気兼ねする事なく落ち着いて過ごすことができました。車両により大きさが違うのでN700系の多目的室は、室内はゆったりしており介助者が2人入っても余裕でした。   

  つくば市内は福祉レンタカーを使用しました。 美術館では作者と会話し作品に触れる事で大きな力をもらえたようです。

 視力は定かではありませんが、その場の空気、音、匂い、風を感じつつ作品を観ている様に思えました。遠出だったので疲れたのではと思いましたが、新たな事への経験が刺激になり楽しんでいた様に感じました。   

  今後も許す限り家族で共に行動 を広げていき、いろいろな体験を重ねて親子で成長できればと考えています。

絶望から希望へ <介護者の心の変遷> 2007. 9. 3記 

清須市 M.K

 「今日は他人の身、明日はわが身」この言葉さえ他人事だった。11年前までは・・・   

 小さい頃から「車には気をつけなさいよ。」と言い続けていたのに、まさか車ではなく自転車の事故で娘がこんなことになろうとは・・・     


 その日、私の娘は自転車で歩道を走行中、歩道に少しはみ出ていたコンビニの置き看板にぶつかり、弾みで自転車から投げ出され、縁石で頭を強打し脳挫傷で一時自発呼吸が止まり、生死をさまよっていた。 遠隔地での事故だったので、私たちが駆けつけるまでには持たないだろうという電話だったが、幸い病院に着く少し前に自発呼吸が出てきて命だけは取り留めた。しかし、「何とか命は助かりましたが、意識の回復は望めないでしょう。今後は重い障害が残りいわゆる植物状態となるのを覚悟して下さい」との医師の言葉を聞いても、すぐには理解できず、上の空だった。それがどんなことなのか想像がつかなかったからである。   


 毎日、毎日余りにも変わり果てた娘を見ているのが辛くて娘と共に死んでしまいたい、そしたら楽になるだろうと真剣に考えたこともあった。 

 今振り返って当時を思い出すとゾッとする。 

  ある日突然襲い掛かってきた過酷な運命を受け止めるには、余りにも大きすぎる試練であった。それ故、心身共にパニック状態になり、現実からの逃避しか考えられなかった。  娘だってこんな姿で生かされ続けていくのはきっと嫌だと思っているに違いないと勝手に決めつけ、この先、娘にとっても家族にとっても何の希望ももてないと思っていた。  なんと自分本位、自分勝手な母親だったことか、今思い出しても恥ずかしいし、娘に申し訳ない気持ちでいっぱいであるが、それが当時の正直な気持ちであった。   


 全くピクッともしなかった娘が、ほんの少しづつではあるけれど、体調面は回復してきた。即死でもおかしくなかった状態から比べたとき、娘の生命力の強さに感動した。そして「まだ死にたくないよ~」と叫んでいる娘の心の声が聞こえた。  それからである。 たとえ医師からはこれ以上の回復はないと言われても、親としてこのまま手をこまねいているわけにはいかないと決意したのは・・

  以来、いろいろ知り得た情報の中で良かれと思う治療、リハビリをリスクも省みず挑戦してきた。 救急での治療が済むと意識がなくコミュニケーションがとれない遷延性意識障害者には、積極的なリハビリは一般病院ではしてくれない現実を悲嘆ばかりしていても仕方ない。こちらからどんどんアプローチしていくしかないと思い、娘の回復のためなら東奔西走どこにでも行こうと思った。

 DCS(脊椎電気刺激装置埋め込み術)、音楽運動療法、中国鍼治etc・・・  そして信州のリハビリ病院では1年半も転地療養させてもらった。ここでは勿論娘のリハビリが目的だったが、信州の美しい自然の中に身を置くうち、私たち家族の心のリハビリが出来たという副産物を得た。

 やはり長い介護生活を持続させるためには、介護者が心身ともに健康であることが必須条件であり、特に精神面の安定、強さが大事である。その意味で転地療養は非常に効果があったように思う。


 在宅介護を始めて7年目になる。大阪で指導してもらった音楽運動療法を中心に、立位訓練、座位訓練(端座位だけでなく、床に膝を折ってお座りもする)そして、週一回プールへ行きリラックスさせ、水中ならではの関節の屈伸運動。 その他、足裏もみ療法も受けている。 それらを毎日続けている相乗効果のせいか、今年になって嬉しい発見をした。それは、立位のとき、以前は障害側の右足はすぐに紫色になり、血流の悪さが明らかだったが、今は左足と同じく赤みを帯びてきた。血流が良くなってきた証拠だと思う。やがては、脳血流の改善にも繋がるんじゃないかと期待している。


 一方、介護のテクニックについては、マニュアル本を参考にしながら、我が家なりのやり方を工夫したり、介護グッズや服も、娘の状況にあった既製品が見つからないと、得意な洋裁技術を生かしてオリジナルのもの随分作ってきた。こうして、いつの間にか、介護を楽しんでいる自分に気がついた。

 勿論、私の家の場合夫と二人で常時介護できること、娘の状態が安定しているという条件が揃っているから、今は楽しい介護なんて言えるのだけど、どちらかの条件が欠けたら、そんな悠長なことは言ってられないかもしれない。でも、試行錯誤しながらの長い介護生活で得たことは「何事もプラス思考で考え、行動に移せば道は開け、気持ちも前向きになれ、元気になれる」ということだった。

 在宅以来、検査入院以外で何らかのトラブルで一度も入院したことがないこともありがたい。今はとても安定した穏やかな日々を過ごせるようになった。


 思えば、即死と紙一重だった11年前から比べて、良くぞここまで回復してくれたものだと娘を褒めてやりたい。

 一時は消えかかった命を守るために懸命に介護してきたつもりだったが、実はそうではなくて、娘自身が生きよう、生きようと頑張ってくれたから私も頑張れたと思う。

 生命の不思議、重さ、凄さを改めて感じると共に、命の尊厳を娘から教えられた気がする。

 健常だったらきっと気づかないことだったと思う。 


 絶望の淵に立たされた当初を思えば、随分気持ちは楽になってきた。  

 過去を振り返らず常に前向きに努力していれば、小さくても必ず希望の灯は見えてくることを実感してきた。

 介護する側、される側ではなく、共に生きていく喜び、幸せの気持ちを持ち続けていれば、希望の灯は絶やされることはないと信じている。


  

在宅介護の状況(11年半経過)

 岐阜市 K.E 


【愛する大切な息子】 

 息子が致死性不整脈による心肺停止・低酸素脳症になる10日前に、私たち夫婦は2泊3日の北海道旅行に行ってきました。息子が結婚30周年のお祝いをしてくれたのです。「お父さんたちは、来年の1月が結婚記念日だから僕が旅行の予約をしといたから少し早いけど楽しんできて。土産は蟹を!」と。こんな優しい気持ちを持った息子でした。 


【発症当日】 

 平成16年(2004年)7月5日未明、就寝中に私の耳に襖をガタガタと叩く音が聞こえ目を覚ましました。辺りには異常がなかったが、別室で寝ている息子の部屋に入ってみると眼は開けっ放し、口から息を吹きっぱなしの重篤な状態であった。直ちに心肺蘇生を施し、救急隊が来たのを確認し「これで助かった。」と思いましたが、救急病院到着時には心肺停止状態であった。病院では救急措置を執ってもらい自発呼吸するようになったが、3分以上の心停止のため脳は壊滅状態で意識は戻らず、遷延性意識障害(植物状態)であることを宣告される。あの時、私が目を覚まさなかったら、息子は冷たくなっていた。 


【入院時系】 

 救急病院では、わずか50日で療養病院であるH病院に転院させられる。なんとか回復期を脳神経外科がある病院にと転院希望をしたが、救急病院からの診断書にはMRSA(耐性黄色ブドウ球菌)が一時陽性反応有りと明示してあったため希望する病院からは入院拒否をされた。 

 H病院7ヶ月後、藤田保健衛生大学病院へ脊髄電気刺激装置(DCS)埋め込み施術のため転院。4ヶ月後、在宅に向けたリーフォームを条件でY病院に転院。翌年の平成18年1月30日に自宅に戻る。息子、部屋に入ると泣き出す。入院中は無表情であった息子が泣く表現をしてくれた事に、家族全員で大泣きいたしました。1年7ヶ月間の入院生活であった。(600日) 


 【在宅において】

 入院中、息子を一人置き去りにして病院から帰る辛さ・・・。看護師さん達が一生懸命頑張って施してくださる医療行為。しかしながら、親としては満足して帰れる状態ではありませんでした。早く家に連れて帰りたい。家族で息子を介護したい。この一念であった。 

・ 週1回の主治医往診。(気管カニューレの交換)中谷クリニック院長 

・ 週2回の訪問看護 (イーナース) 

・ 月110時間の身体介護(ヘルパーステーションあい) 

・ 週6回のマッサージ(さわ施術院) 

・ 週3回の訪問入浴(岐阜市社会福祉協議会) 7・8・9月以外は週2回 

・ 週1回の歯科による口腔ケア(小野嶋歯科) 

・ 2箇月(8週間)に1回の胃ろうチューブの交換(岐阜赤十字病院) 


【摂食・投薬状況】 

① 1日の食事(ラコール)について 朝食・夕食は、ラコール半固形 各300kCal注入 上記食事の1時間前に補水150ccを注入 食時終了後に補水200cc注入 昼食は、ラコール400kCal注入 食時終了後に補水200cc注入 1日食事摂取量  1000kCal 1日水分摂取量   950cc 

② 薬剤投与について(食後) 

 1日3回毎食後 

・ムコダイン細粒50%、ラックピー微粒N1%、ガスコン錠40mg   1日2回朝・夕食後

・シンメトレル錠50mg、ムコスタ錠100mg、リボトリール錠1mg  

 ミオナール錠50mg   

その他 

 パントシン散20%酸化マグネシーム(便通を良くする薬) 

 前日の排便状態を見て適宜薬剤量を減らしている。 


【寝具】  

 このベッドは、モルテンのクレードを使用しております。ベッドは低反発性で自動体位変換モード仕様であり重宝しております。 


【電動吸入装置】  

 気管切開部カフ菅の外側から唾液が漏れ出てくるためにガーゼを頻繁に交換しておりました。この装置(唾液専用吸引器)は漏出する唾液を吸引する便利品でガーゼ交換が減りました。 


【息子の状態】  

① 介護疲れはありますが、息子の表情が良く、笑ってくれる事が私達の幸せの一時であります。   

 息子は聴力が良く、バラエティー番組等を聞かせますと、身体を揺すって笑ってくれます。また、BGMで悲しい曲(弦楽器)を聴いたり、ドラマで泣きの場面が入ると泣き出したりします。 

② 寝る時間は、昼夜逆転しており朝方に眠りに就きます。 

 夕食時(午後7時過ぎ)に2時間ほど眠りますが、それから早朝まで眠らない。 


【介護の記録】  毎日介護記録をリアルタイムに付けております。 


【カフバルーンの空気量】 

 在宅になって10年経過、当初は誤嚥性肺炎、気管支炎等で年に1~2回は入院しておりました。  

 気管切開しており、カフ付きカニューレを装着しておりますが、1日でバルーン内の空気が減り、その結果唾液が気管内に入り込み(誤嚥)、吸引を何回も繰り返しておりましたが、1日に1回必ずシリンジにてバルーン内の空気量を調整しましたら、吸引回数が頻回だったのが激減し、入院することなく介護が楽になりました。誤嚥性肺炎を起こさなくなりました。  

 息子の場合、カフバルーン内の空気量は7.6ccが最適です。



我が家の事情 

愛知県 Y.S. 

 息子が遷延性意識障害になったのは、2002年10月24日でした。中学3年生(15歳)でした。脳動静脈奇形による脳出血でした。 

 この日息子は、学校から午後4時頃帰宅し、小腹が空いたらしく、いつものように冷蔵庫から食べ物を出して食べていました。息子と入れ替わりに娘をこの日病院へ連れて行かなければならなかったので、息子に留守番を頼み私達はすぐ家を出ました。息子は、食べ終わるといつものように2階に上がってゲームをしていました。 

 病院から6時頃帰宅した時、息子はゲームをしながら窓を明けっ放しで居眠りをしていたので、風邪を引いてはいけないと思って綿毛布を掛けってやりました。その時ウ〜ンと言って寝返りを打ってそのまま寝てしまったので、夕食が出来るまで寝かせてやりました。 

  7時頃夕食が出来たので息子を呼びに行ったら、その時もう息が荒く一瞬で危険な状態だと分かったので、すぐ救急車を呼び同時に会社にいる主人にも連絡しました。主人の方が先に病院に着いていて「遅いね!」と言って心配で待ち侘びていたようでした。

  私はもう必死で救急隊員の言う通りに従って、一刻も早く病院へ連れてって欲しいと思う一心で頭は真っ白になり、どの位時間が経過したかわかりませんでした。  7時半頃病院に着いて直ぐに救急救命室へ通され、1時間後に先生に呼ばれ説明を受けましたが、まだこの様な状態になっている原因が分からないので、原因究明する為もう少し待って下さいと言われました。 

  結局原因が分かったのは、次の日の午前0時半頃で、4時間待っている間、私も主人も気が気ではなく沈痛な空気に潰されそうでした。その時には、まさか息子が遷延性意識障害者になるとは思ってもおらず、きっと元気に回復するとばかり思っていましたので、ドクターの厳しい状況であると言う説明をとても聞き入れられませんでした。 


  その説明は、脳圧が高いので今から手術室で麻酔を3日間かけて脳圧を下げるが命が助かるのは五分五分である事、三日後に麻酔を切ったとしても目覚めるかどうか分からないと言う事、その他水頭症や肺炎になる恐れがあると告げられて気が狂いそうでした。 

  その後息子は、ICUに入れられ午前2時頃面会が出来た時は麻酔ですやすや眠っている様に見えましたが、熱は40度もあり人工呼吸器が装着され、体中管が付けられているのを見るととても耐えられなくて涙が止まりませんでした。しかし、息子が一番苦しんでいると思うと私達(主人と私)がしっかりしなければならないと自分自身に言い聞かせ、何とか良くなって欲しいと一心に祈っていました。その後2ヶ月も40度前後の熱が続き除脳硬直も激しくて体が反り返り、息子の表情がとても苦しそうなので、心配で心配で胸が張り裂けそうでした。 

 この様に色々な試練を乗り越えて6ヶ月入院後、やっと自宅へ帰って来られました。意識は戻っていませんでしたが、主治医から「病院は、刺激が少ない。自宅に戻って様々な生活の音、家族の声などを聞かせ、刺激を与えることが効果的です。」と諭され、一通りの処置、介護を習い、不安も抱えながら在宅介護生活に入りました。 

 ところが、1週間後に誤嚥性肺炎で、病院へ逆戻りになり、またICUに入ることになった時は、息子を再び苦しませる事になって本当に申し訳無い気持ちで、何で肺炎にさせてしまったのか、と自分自身を責めました。退院時に胃のなかのものの確認の為の『胃吸引』の指導を受けたのですが、胃瘻の構造が、逆流防止弁が働き、病院の指導方法では、内容物が確認出来ないことが、後日判明しました。もし、正確な胃吸引方法を教えてくれていたら、こんなに酷い状態にはならなかったと思います。医療関係者の方々の命を預かる良心にすがるしかないのでしょうか(このとき裁判になったら、医療ミスで息子が勝訴したと思います)。  

 そして病気を発症して9年半、在宅9年の今(平成24年5月現在)は、何とか穏やかに暮らせる日も以前より多くなって来たので、私達も安心出来る時も多少ですがあります。でも、まだ嘔吐したり熱が出たりして具合が悪くなったり、昼夜逆転も多いのでいつもハラハラドキドキしています。 


 我が家は、子供が二人しかいません。息子が倒れた時、娘は9歳(小学校3年生)でした。息子に6歳違いでやっと出来た妹でした。息子は妹をすごく可愛がっていました。私達も娘が出来てとても喜んでいました。娘は、生まれつき障害がありました。発達障害(知的障害)です。それが分かった時、私も主人も愕然として落ち込みました。 しかし、それと同時に娘を何とかしなければいけないと思い、色々と奔走しました。療育センターに通い、リトミック、リハビリスイミング、音楽療法、言語訓練など娘に良いと思われる事はありとあらゆるものを試みました。 

 発達を促す事を色々やりましたが、すべてに手が掛かりなかなか順調にいかないで頭を抱えていた時、唯一心の支えになったのが息子でした。倒れるまでは、息子は家族の中で一番元気で丈夫で活発で私の自慢の子(手前味噌で恐縮ですが)で頼もしい存在でした。私は、何かと頼りにしていました。 

 息子は、小さい頃から色々な事が自分で出来きて手の掛からない子で早くから自立していましたので、私も主人も将来を凄く楽しみにしていました。現在、妹は19歳ですが、知的年齢はおおよそ3歳くらいです。まだまだ手が掛かり、一人では出来ない事も多いので心配事が一杯ある矢先、まさか息子がこの様な事になろうとは思ってもいませんでしたので、その悲しみは底知れぬほどです。 

  今では、逆転してしまって息子に沢山手が掛かり、娘にあまり手を掛けてやれなくなってしまったのが気掛かりなところです。娘は1歳半で癲癇を発症して薬を服用しており、今も発作があります。息子も2年半前に癲癇を発症するようになりました。それで娘が癲癇の発作を起こした時、息子も筋緊張が強くて息が出来なくなってしまう事が同時に起きてしまいました。3~4回ありました。 

  その時は私一人ではどうしようもないので会社に連絡し主人を呼ぶ事になってしまいました。二人の処置、主人への電話、一人では、この三つをこなすのは容易ではなかったので、私もパニックを起こしてしまって大変でした。現在、息子には良い薬が見つかり1年位前から発作を起こさなくなりましたので、ひとまず安心しています。しかし、緊張が強くなることは、頻繁です。その都度、頬を撫でるなどして、緊張をほぐさないと、呼吸が困難になります。  

 出来る事なら息子も娘も自立が出来るまで元気になって欲しいと切に願っています。いや、そうなると信じています。そう思わないとやっていけませんし、これからもずっと頑張っていきたいです。しかしながら、寄る年波には勝てないもので、私も3年半前に椎間板ヘルニアを発症し痛みに顔が歪む時があり、主人も体がしんどいのは事実です。我が家では子供二人ともが障害を背負ってしまって、将来、私たち夫婦も子供たちもどんな人生になるのか想像も出来ません。 

  でも、頑張ります!良くなる日を信じて!!



家族の手記

岐阜県大垣市  S.K.

 主人は、平成19年11月18日に、自転車に乗っていて自動車との衝突事故にて受傷しました。

 肺挫傷・脳挫傷で、手術ができなく2時間の命と医師から伝えられました。何とか延命措置を懇願し現在(受傷後5年)に至っております。

 当時は、なかなか転院先が決まらない私に主治医は「目も開かない、手も足も動かない、ただ栄養をもらって寝ているだけの植物状態の憲者に、どうしてリハビリが必要ですか?」と迫られた言葉には、感極まり泣いてしまいました。

 病院を転々として1年5ヶ月後、一人で24時間、在宅介護に踏み切りましたが、デイサービスは何処も受けてくれませんでした。1時間毎の痰の吸引、2時時間以上の座位が保てないことが理由でした。やむなく在宅に入ってからの1年間は、私一人で主人を介護しました。その後は医療型通所介護というデイサービスを1日3人だけ試行的に初めていただいております。

  私は、家族会「ひまわり」に入会し5年間経過しておりますが、会員の皆様に御報告出来る事は何もありませんが、ただ毎日欠かさず実施してきた事は、リハビリ、足ツボマッサージ、耳には音楽、声掛け、□腔ケアです。成果としては5年に成りますが、身体の硬直は穏やかになったと思っております。


 現在は、介護保険でDS週2回、HRl時間で週4回、NSl時間で週1回、OTl時間で週2回を月に施しています。実費でマッサージも実施しています。今主人にしてやりたいのは、PTですが介護保険枠が限界で私が補っています。

  一度デモ機のスタンディング車椅子を使用したところ、立ち上がりが出来、上から見下ろして本人もびっくりしているようでしたが、購入は思案中です。

 日常出来る限り、1日1回は車椅子に乗せて、日光に当てるため散歩し足浴をしています。

 乗車方法は足の膝上でベルトをして、1本の足として立てないけれど、立つ意識を持たせるようにして、ときには後ろから抱きかかえる様にして一人で移乗させていますが、先回の退院後よリレベル低下しており限界を感じています。

 皆様に何も参考になりませんが、足ツボマッサージと足浴はお勧めです。 

  主人の反応もあまり有りませんが、構わず私は一人しゃべり笑って楽しく、まるで今が新婚の様です。心配な事は介護者自身の健康ですが、今やつと全てを受け入れる事が出来、力も抜いて自然体で生きられる様になりました。

 これも、この会に入って同じ仲間がいて、学び合う事が出来るからだと思います。

  感謝をしています。

[息子に向き合い、励まされる改善と変化の毎日]

三重県Y・K

 息子は8年前、交通事故にあいました。

 医師から告げられた傷病名は、頭部外傷、びまん性軸索損傷、右大腿骨骨折、左胸骨骨折、左血気胸、胸椎横突起骨折・・・。この日まで大きな病気やけがもなく過ごしてきた24歳の息子にとつて、そして、家族にとつても一瞬にして人生が大きく変わってしまいました。

 昏睡状態の息子の前で、何も考えることも何もしてやることもできず、ただ「命がつながったのだから・・・」とそれだけを思うようにして、やつとやっとの思いで過ごす日々でした。「何故・・」「どうして・・・」と起こってしまつた目の前のあまりにも厳しい現実を、心の底から受け入れることができませんでした。打ちのめされてしまいそうな気持とこんな時こそしつかりしていなくてはという思いとの狭間で混乱していたことを、今思い起こしても胸が詰まってきます。 

 毎日が職場と病院の往復。交代の付き添いでほとんど会話のない家庭生活。次の転院先を探し、病院を転々としながら、これといつたリハビリも受けられず、植物状態の息子の姿に途方に暮れる日々でした。 

 受傷後、一年経過した頃に、交通事故によって重度の障がいをもつ人たちのための病院に入院させていただくことができました。ある日、看護師さんが歯磨きをしてくださった後、息子に対して、 「ありがとう、協力してくれて。」と言ってくださいました。その当時の息子は自発的な行為は何も見られず、反応といえば日の前に鏡をかざすと目で追うことしかできなかったので、「えつ!協力・・・?!」と看護師さんの意外な言葉に驚き、問い直しました。 

 「ええ、協力してくれていますよ。目も開けてくれるし、歯を磨いていることもちゃんと分かっていますよ。」と。私は息子の顔をまじまじと見直し、何にもできなくなってしまったと思い込んでいた自分を情けなく、そして、息子に申し訳ない気持ちでいつぱいになりました。よくなろうとしているに違いない息子の思いをもつと信じていこうと心に誓った瞬間でした。 

 この病院ではPT,ST,OT,VR,音楽療法など、脳への刺激を中心に積極的に支援していただきました。リハビリを受ける中で、文字による指示に反応できることを見つけていただき、毎日の生活が一変しました。真っ暗な闇の世界に一筋の光が見えてきたような思いでした。指示のボードを見て「右を見た」「上も見上げた」「右手でグーをした」と僅かなことですが、このような変化が見られることが、何にも代えがたい喜びとなり、私自身の生きる支えとなっていました。その気持ちは今も同じようにつながっています。 

 また、同じように家族を看てみえるたくさんの家族の方々ともお知り合いになることができました。退院の時期が近づき、在宅の準備にかかる頃には、もう受傷後4年近く経過していましたが、「自宅で看ていくことができるのかしら・・・」と連れて帰ってくること自体、不安でいっぱいでした。お母さん方から在宅介護に向けてのいろいろな情報をいただいたり、相談に乗ってもらったりすることができたことは本当に支えとなることでした。相談に乗ってもらっている中で、「できそうなことは、あきらめずにどんどんとしていけばいいし、お母さんがストレスになるようなことは無理にしなくていいよ」と、話してくださった言葉も背中を押してくれたように思います。  

  在宅生活が始まる頃には、息子は、こちらからの問いかけにYES ・NOの返事を返してくれるようになってきていましたが、本人から自発的にサインを送ってくることはなく、主治医の先生に笑われてしまうほど一日に何回も体温を測り、体調管理に気を配りました。昼夜を問わず一日20回を超える吸痰、体位交換、手足の関節運動、着替え、口腔ケア、車いすへの移乗、おむつ交換、入浴介助、通院リハビリのための外出準備・・・。加えて様々な家事をこなしていくことは、予想していた以上に、大変な日々でした。 

 何にもまして悩んだのは、定期的に起こつてくる昼夜逆転の睡眠リズムでした。ある日、PTの先生が「体内時計」の話をしてくださいました。 

『人間の体にはサーカディアンリズム(人間の睡眠―覚醒の周期、体温の周期、ホルモンの分泌量、尿の生成量、胃腸の運動、認知や運動のリズム等)があり、そのリズムは24時間より少しずれているため、そのままにしておくと、外界の昼夜のリズムから徐々にずれてしまう。それを防ぐために、体内時計を昼夜のリズムに合わせなければならない。そこで最も大きな役割を果たすのが光と考えられ、毎朝太陽の光を浴びることにより、体内時計がリセットできる』というものでした。 

 次の日の朝から、膚、子が眠つていても日覚めていても、どんなに暑くても寒くてもベッドごと移動して、とにかく朝日を顔や体に浴びせるようにしました。すると、定期的にずれ込んでいた昼夜逆転のリズムがピタリとなくなり、夜更かしすることはあつても夜は眠ってくれるようになりました。人間は自然の中で自然と深くかかわって生かされていることを実感しました。これからの介護の中でも気をつけていきたい事です。 

 息子の体調が安定していることにも助けられ、できるだけリハビリも受けさせてやりたいと願っています。

 先生方のご指導の中で、「そんなこともできるんだ!」「こうやって、かかわれば、息子の思いが引き出せるんだ」と、何度心を動かされたことか知れません。 

 皆さんのご支援があって、最近では、五十音表を使って「あっちへ行きたい」「起こして」など自分の意思を表現したり、PCを使って簡単な質問に答えたり、また、オセロやパズルなどで一緒に遊ぶこともできるようになってきました。まだまだ覚醒の状態に左右されることがあり、集中できる時間も限られていますが、自分の意思を通そうとするようになってきたことや、よくなりたいと思つていろいろなことに取り組んでいる姿を大切に伸ばしていってやりたいと思つています。 

 これから先のことを考えると不安もたくさんありますが、息子の心に寄り添って温かく指導していただいています。主治医の先生、リハビリの先生方、ヘルパーの方々に心から感謝して、これからもあせらず、息子としつかり向き合っていこうと思っています。 

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