上野 芳江
秋田県出身、東京都在住の一般人。
高校時代、知らぬまに文芸部に入部させられ、小説を書き始める。
その後、細々とお話しを作り、現在に至る。
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1. 金曜日
右肩に黒のショルダーバッグ、左手にビニールの買い物袋を下げて直美は、アスファルトの道をカツカツと音を立てて歩いていた。空は夕焼け、イワシ雲。こんなに早く帰れるなんて、ほんと久しぶりだわ。今日は絶対、イワシの梅煮をするんだ。バルコニーの梅干しがいい感じに干しあがってるし。明日は土曜日だし、サバを味噌煮しよう。春に仕込んだ味噌もそろそろ食べ頃だものね。
と、思った瞬間、足元を小学生と保育園児が走り抜けた。
「あぶないわねえ。親のしつけがなってないわね。」 子供の後ろ姿を睨み付けて、
「いかんいかん、眉間にシワができるだけだわ。」と、思い直す。
前方に大きなマンションが見えて、直美はバッグのポケットから鍵を出した。
新井直美、38才、独身。外資系IT関連企業に勤めて10年になる。別に仕事ひとすじに頑張ってきたわけでもない。彼氏もいたし、その時々でいろんな男の子とつきあって、興味を持ったことも一通りやって、ワインとか、フランス語とか。ふっと気付いたらこの年になっていた。うちの会社、お給料もそこそこいいから、別に結婚しなくてもやっていけるじゃない。それで、昨年マンションを購入した。ルーフバルコニー付きの1LDK。ひとりで暮らすにはちょうどいい大きさ。もしも男がころがりこんでも、2人までなら何とかなるしね。
マンションのエントランスを抜けてエレベーターに乗り、6階でおりると、直美はフロアの一番右端の部屋の鍵を開けた。ドアを開けると玄関のライトが自動的に灯る。
「ただいまー、って、誰もいないんだけど。ま、家に帰った時に真っ暗じゃないのはいいよね。うん。」
ひとり暮しも20年。独り言に自分で相づちを打ちながら靴を脱ぎ、スリッパに履き替えた。短い廊下の右手にトイレのドア、左手にある開けっ放しの横開き戸の向こうには、脱衣所と浴室が見える。直美は廊下を三歩歩くと、正面にあるリビングのドアを開けた。15畳ほどのリビングの左側に、4畳半ほどのベッドルーム、右に3畳くらいのコンパクトなオープンキッチン。大きめのシンクと3口コンロが並び、その先にはルーフバルコニーにつながる通用口がある。シンクと反対側の壁面には備え付けの収納棚。その隣に大きめの冷蔵庫をはめこみ、狭いながらも機能的なキッチンになっている。 キッチンのカウンターに買い物袋とバッグを置いて直美は、通用口のドアを開けた。
「梅干し、梅干しー。」 とリズムをつけて口ずさみ、バルコニーにおいてあった平らなざるに手を伸ばす。
「よいしょ、あれ?」 思ったより軽い。こんなに水分が抜けているはずはないんだけどな、と思いながら、ざるを台所に引き入れた。
大きめの南高梅に皺が入り、ところどころに白い塩が吹き出ている。まさに食べ頃だ。
「・・・77、78、79、80、81、82。やっぱり。」 梅干しを数え終えた直美の目が、キラリと光った。
「100個以上あったはずなのよ、うっそー。カラスが持っていったのかしら。でもこんな酸っぱいもの、食べないはずよねえ。あーんもう、私の梅干しー。」
口をへの字にしても、なくなったものは戻ってこない。直美は気を取り直して、ざるから梅干しを2個とってお皿に入れ、残りは広口のガラス瓶に入れた。 「さてと、梅煮を作りましょうか。」
ステンレスのボールに水を張り、多めに塩を入れると、買い物袋から大振りのイワシが3尾入ったビニール袋を取り出し、塩水の中に解き放った。澄んだ目とよくしまった身が、今朝まで生きて飛び跳ねていたことを感じさせる。親指で静かにウロコをかきだし、まな板の上で筒切りにする。切り口にまだ弾力があった。
「うわー、おいしそうー。刺身でもいけそう。でも今日は梅煮なのねん。」
内蔵を押し出して水でさっと洗い、鍋に入れる。ひたひたに水を注いで中火にかける。あくをとり、醤油、味醂、梅干しを入れて落とし蓋。
「あ、しょうがを忘れるとこだった。」 買い物袋からしょうがをとりだし、洗ったまな板の上で千切りにして鍋に入れると、梅の酸味に交じって、しょうがのさわやかな香りが立ち上った。
トゥルルルル、トゥルルルル。電話がなって直美は、台所の隅においてある子機をとった。
「はい、新井です。」
「あ、直美、いたの。」田舎の母からだ。
「うん、今日はめずらしく残業がなかった。」
「そう。あのね、今日、サバを送ったから、明日つくよ。」と母。
「おっ!やったあ。明日はサバミソを作ろうと思ってたんだよね。」と直美。
「あら、それはちょうどよかった。それからね、一緒に写真が入ってるから。」
「何それ、何の写真?」 ふと、直美は嫌な予感がした。
「45才で、小学生の女の子がいる人なんだけど、2年前に離婚して男手ひとつで子供を育てているの。真面目ですごくいい人なのよ。」
「まさか、お見合い写真?」
「そうよ。あなたにお見合いなんて、もう絶対ないと思って諦めていたんだけどね、お向かいの小山さんが直美にぜひって、持って来てくれたのよ。」
「ええ?いいよ、今さらお見合いなんて。おまけに子持ちのバツイチでしょ。」
「あなた、なに贅沢言ってるの。その年でいまだに独身なんて、東京にいるからそんな呑気にしていられるけどねえ。こっちにいたら恥ずかしくて外にも出られないわよ。」
電話の向こうで、母の声がだんだん大きくなっていく。
「あ、ごめん、今、イワシ煮てるの。煮詰まっちゃうから切るね。じゃあまた。」
そそくさと電話を切って子機を置くと、直美はひとつ溜め息をついた。新しい息を吸うと、甘辛い中にほのかな酸味のある空気が流れ込んだ。振り返ると鍋のなかで、あめ色に程よく煮詰まった梅煮がコトコトと揺れている。
「おっ、いいころ合い。」 直美はコンロの火を止めて、落とし蓋をはずした。
食器棚から中くらいの小鉢を出して、イワシを中高に盛る。イワシの脇に梅を一つ添えて。
「さてと、ひとり晩酌しますかね。」 小さなガラステーブルに梅煮とお箸を置き、冷蔵庫から冷酒を出して本日のグラスを選び、ソファに座る。トクトクトク。4合瓶から薄口のタンブラーグラスに日本酒を注いで、テーブルに置く前にとりあえずひとくち。ゴクン。空きっ腹にお酒が流れ込み、身体がほんのり暖まる。
「お見合いかあ。」 母の言うことも、わからなくはない。結婚して子供を作って、親に孫の顔を見せることは、多分一番の親孝行なんだろう。人の寿命なんて、長生きしたって100年足らず。子孫を残して次代に命をつないでいくことは、とっても大事なことって、頭ではわかっているけれど。直美はテーブルにグラスを置くと、梅煮をひとくち食べた。口の中で、イワシがほどけていく。
「おいし。」 子供の頃から何度も食べて来た、母の梅煮と同じ味。
2. 土曜日
翌日、朝から洗濯機を回し、掃除機をかけていると、ピンポーン。インターホンが鳴った。モニターには縞模様のポロシャツを着た男の人がひとり写っている。直美はインターホンの受話器をとった。
「はい。」
「宅急便です。」
「どうぞ。」
エントランス解錠のボタンを押して受話器を置くと、しばらくして玄関のベルがなった。玄関の鍵を開け、ドアを押し開ける。
「冷蔵便です。」
「はい、お疲れさまです。」
受け取り伝票にサインをして荷物を受け取る。中くらいの発砲スチロールの箱に、しっかりとガムテープが巻かれている。箱を小脇に抱えてドアの鍵を閉め、キッチンに持っていき、ガムテープを剥がして蓋をあけると、一番上にビニール袋に包まれたお見合い写真があった。
「おかあさん、いくら何でもこれは失礼でしょう。」 と、苦笑しながら写真を取り出すと、その下にはしっかりと密封したビニール袋。
かち割り氷に埋もれて丸々と太ったサバが4尾、入っている。
「わお、上等上等。」 サバをさばくのは後にして発砲スチロールの蓋を閉めると直美は、お見合い写真を手に取った。
「一応、見ないとね。」 A4くらいの大きさのお見合い写真をビニール袋から出して、厚紙の表紙を開く。
「うーん。」 温厚そうな二重あごにつぶらな瞳。髪は少し薄くなりかけている。
「いい人なんだろうけどねえ。」 と呟いて写真をキッチンカウンターに置くと、ピー、ピー、ピー。
「あ、洗濯終わった。」 短い廊下をパタパタと歩き、脱衣所の洗濯機から洗い上がった洗濯物をかごに取りこみ、それを持ってまたキッチンへ。その先のルーフバルコニーへと続くドアを開けると、前日より少し大振りな雲が、青い空を一面、埋めつくしていた。
「なんだかサバの大群みたいね。」 スリッパを履き替えて、いままさにルーフバルコニー出ようとした、その時だった。
いきなり突風が吹き、近くの公園から飛んできた枯れ葉が、ルーフバルコニーの中心で渦を巻きはじめた。カラカラと乾いた葉っぱがぶつかりあう音が次第に大きくなると、一辺が1m程の逆三角形、いや、逆円すいになって、ルーフバルコニーを中心から外へ時計回りに一周し、バルコニーの隅に置いてあった味噌樽の蓋を勢いよく飛ばした。直美は思わず目をつぶった。
カランッ、バリッ、ペシャッ。 ペシャッ?不審に思って目をあけると、ひび割れた蓋のとなりに、味噌にまみれた大きなタコが一匹。
え?タコ?味噌は確かに作ったけれど、タコを味噌漬けした覚えはないぞ。
小さな竜巻きが空中で分解したのを見届けると、直美は洗濯かごをキッチンに置き、おそるおそるタコに近付いた。
頭を持ち上げようと手を伸ばした瞬間、タコがおびえたように目をあけた。
《ごめんなさいっ、ごめんなさいっ。》
「え?なんか言った?」と直美。
《はいっ、ごめんなさいっ。ごめんなさいっ。》
「タコ、タコがしゃべってるー!!」 直美は思わずその場に座り込んだ。腰が抜けるってこういうことだろうか。
《ああっ、すみませんっ、驚かすつもりはなかったんですっ。お宅のお味噌があまりにも美味しそうだったのでっ、少しだけいただいてっ、戻ろうと思っていたんですっ。そしたらいきなり竜巻きがっ。》
「え、少しいただいて戻る?」
《はいっ、昨日もご迷惑をかけてはいけないと思いっ、あなたさまがお帰りになるまえにっ、梅干しを少しだけいただいてっ、戻りましたっ。いやっ、あの梅干しはっ、ほんとにすばらしかったですっ。》
「お、、おまえか、この泥棒ネコ、いや泥棒タコがー!」
怒り心頭に達した直美は、抜かした腰を立て直してタコににじり寄ると、胸ぐらではなく、足を1本つかんで思いきりブンブンと振り回した。
《やっ、やめてくださいっ、ごめんなさいっ、もうしませんっ。》
10回ほど振り回し、腕がつかれてきた直美はタコをその場に置くと、腰に手をあてて説教をはじめた。
「あなたね、あの梅干しを作るのに、私がどれだけ時間をかけたか知ってるの?梅をひとつずつきれいに洗って、傷つけないように慎重に拭いてから焼酎と塩でつけて、しそも洗って、しそを梅にはさみこんで漬けて、それから味がしみるまでじっと我慢して、晴れ間をみて干して。で、やーっと食べられるところまでこぎつけたのよ。そんな苦労も知らないで、できあがったところを横からかっさらうなんて、なんて人なの、じゃない、なんてタコなの!」
直美がひと息に話し終えると、味噌にまみれたタコはその場で小さくうずくまった。
《ごめんなさいっ、そんなに大変なんですねっ、ごめんなさいっ、もうしませんっ。》
ひとこという度にどんどん小さくなっていくタコをみているうちに、直美はなんだか自分がイジメッ子のように思えてきていたたまれなくなり、
「ちょっと待ってなさい」と言うと、所在なげにうずくまるタコを残してキッチンに向かった。
しばらくして、やかんと大きめのビニール袋としゃもじを持ってルーフバルコニーに戻ってくると直美は、タコの身体にべっとりついた味噌をやかんの水で洗い流し、味噌樽からビニール袋にしゃもじで味噌を取り分けながら言った。
「まあね、梅干しをだまって持っていったのはよくないけど、すばらしいなんて言ってくれた人はいなかったからね、正直、うれしいわよ。仕方ない、味噌もちょっとお裾分けしてあげるわ。」
直美はビニール袋の口いっぱいまで味噌を詰め込んで袋の口を縛り、タコに渡した。おそるおそる足を伸ばしてビニール袋を受け取ると、タコは本当にうれしそうに言った。
《いいんですかっ、ありがとうございますっ、ありがとうございますっ。》
味噌を洗い流してきれいになったタコは、何度も頭をさげると直美に向かってにっこり笑い、スーッと、空中に溶けるように消えたのだった。
後に残された直美は、手の中のしゃもじを見つめながら、つぶやいた。
「あれって一体・・・。」
視線の先に、割れた味噌樽の蓋がある。樽の中の味噌も確かに減っている。さっきのことは、夢じゃない。梅干しを食べて、味噌をなめて、言葉を話すタコって・・・。いや、今日のところは深く考えるのはやめよう。とにかく今日は、サバの味噌煮を作るのよ。空を見上げると、さっきまで青空を埋めつくしていた細長いだ円形の雲が、きれいにどこかへ消えてしまっている。
「よし、サバを3枚におろそう。あ、その前に洗濯物を干さないと。」
そう言うと直美は再びキッチンへと戻っていった。
その夜のこと。サバの味噌煮を食べて一息ついた直美は、リビングに新聞紙をひろげると、キッチンの戸棚から大きめの密閉容器を取り出した。
「食べたら作る、と。また春にむけて味噌を仕込まないとね。」
密閉容器の蓋を開けて中身を新聞紙にあけると、乳白色の大豆がザーッと音を立てた。
「これが重要なのよ。」 と、相変わらず独り言を言いながら、新しい味噌を仕込むための大豆を選り分ける。
大豆に傷や虫食いがあると、味噌の出来に影響が出るのだ。慣れた手付きで大豆を転がしながら黒ずんだ豆を拾っていると、目の前に陽炎が立ち上った。
「ん?なに?」 手を止めて陽炎に目を凝らすと、やがてリビングの片隅に、赤黒いタコが2体、現れた。
「あんた、昼間の・・。」
《はいっ、夜分お邪魔しますっ。》
小さい方のタコがペコリと頭を下げると、大きな方が続けていった。
《昨日と今日はっ、本当に御迷惑をお掛けしましたっ。私はっ、大平洋上空の空域に住んでおりますっ、オークトパスッ族の長老でございますっ。オークトパスッ族はっ、海に住むタコ族とは遠い昔の親戚関係に当たりますがっ、二億年程前に私どもが空へ引っ越しましてからはっ、まーったく付き合いがなくなりましてっ、現在に至っておりますっ。私どもはっ、この空域に棲息する魚を主食としておりましてっ、秋は青魚をおもに食べておりますっ。ここのところはイワシとサバが大漁でしてっ、梅煮と味噌煮はよく食べるのですがっ、昨日と今日はことさらに美味しかったものでっ、これは何か特別な仕入れをしたのに違いないとっ、この料理係に問いただしましたところっ、お宅のものを無断で拝借してきたと聞きっ、もう本当に大変に申し訳なくっ、オークトパスッ族としてもっ、地上のものを盗むなんてっ、種族始まっていらいの恥ずべきことでありっ、このように平身低頭っ、謝りに伺った次第でございますっ。》
タコの長老はこう一気にまくしたてると、文字通りリビングの床に這いつくばるようにして頭を下げた。料理係の小さいタコも、隣で同じようにべっとりと頭を下げた。タコに謝られるという滅多にない状況に、直美はしばらく沈黙していたが、大豆の山を見て、ふと思い立って言った。
「そんな気にしないで、大丈夫よ、そこまで謝られたらかえってこっちが恐縮するわ。それより明日の昼間、もう一度いらっしゃいよ。味噌の仕込み方を教えてあげる。」
3. 日曜日
一夜あけて。柔らかく茹で上がった大豆をすり鉢に移し床に下ろすと、すりこ木を構えて直美が言った。
「いい、腰を入れて潰すのよ。こんな感じに。」
すり鉢の脇にしゃがんで、まずはすりこ木を垂直に使って大豆を押しつぶす。荒く潰れたところで、すり鉢の壁面にすり込むようにリズミカルに大豆を練りはじめると、直美の周りで歓声があがった。
《おおーっ、すごいっ。》
「さ、じゃあ次はあなたがやる番よ。」
直美はすりこ木を料理係のタコに渡すと、すり鉢の端を押さえた。
「ほら、あなたも押さえて。」
タコの長老も真剣な表情ですり鉢に足をかけた。料理係のタコがなれない手付きですり始めると、潰れた大豆から熱い湯気が上がる。
《うっぷーっ!》
「真上に顔をださないの。ゆでダコになっちゃうわよ、気をつけなさい。」
《はいっ、気をつけますっ。》
すりこ木にしっかりと足をからませ、ズリッ、ズズリッと、不規則なリズムながらも黙々と刷り続けていると、やがて大豆は砕けた米粒くらいの大きさになった。粗熱がとれたことを確認して直美は、戸棚から大きめのボウルを取り出し、潰した大豆をすり鉢からボウルに入れ替えた。
「はい、じゃあここで麹と塩を混ぜます。麹は豆麹でも麦麹でもいいんだけど、うちは米麹。あっさりしてほのかに甘い感じに出来上がるわよ。」
3口コンロ下の扉を開けて塩と麹の袋を取り出し、封を切ってボウルの中に入れる。
「ここでしっかり混ぜるのがポイントなの。」
直美が素手でボウルの中身をかき混ぜはじめると、料理係のタコが言った。
《あのっ、ぼくっ、混ぜていいですかっ。》
「あ、やってみる?どうぞ。」
直美が手をどけると、料理係のタコはボウルの中に足をつっこみ、身体ごとボウルに這い上がると、まるで大豆の海を泳ぐように、足を動かした。みるみるうちに塩と麹の白い粒が大豆に混ざっていく。
「うわー、すごい、足がいっぱいあると便利ねえ。」
《お誉めいただいてっ、光栄ですっ。》
小さなタコがポッと頬を赤らめた。
「よし、じゃあそのくらいでいいかな。ちょっと脇に避難してくれる?」
タコがボウルのふちに移動すると直美は、その中に冷めたゆで汁と味醂を入れた。
「はい、混ぜてください。」
《了解ですっ。》
料理係のタコはボウルの中央に移動すると、再び全身で大豆の海をたゆたいはじめた。さっきより水分が増えたので混ぜやすくなったのか、軽やかな足さばきである。そばで見ていたタコの長老が言った。
《なんだか気持ちよさそうだねえっ。》
「長老も入る?」と直美が言うと、
《いいんですかっ、ええっ、ぜひっ!》
長老はそう言うやいなや、ボウルの中へと滑り込んだ。大きなボウルにタコ2つ。楽しそうにゆれる2つの頭を眺めながら、直美はふと思った。
親子、家族、家庭・・。結婚、かあ・・。
しばらく黙っていると、料理係のタコが言った。
《直美さんっ、そろそろいいですかっ。》
「あ、そうね。」 ボウルの中を見ると、大豆に水分がなめらかに混ざっている。
「OKよ、どうもありがとう。」 直美はそういうと、ボウルから2体のタコをシンクに引き上げ、水道の水で身体をきれいに洗ってやった。
水道のシャワーを浴びおえて軽く身震いし、水滴を払い除けると、タコたちはシンクから床へと飛び下りた。直美は戸棚から中くらいの密閉容器を2つ取り出し、蓋をあけてボウルの横に置いて言った。
「では、大豆を詰めます。空気が入らないように、こう、叩き付ける感じでね。」
柔らかく潰れた大豆をボウルから手に取り、容器の底に叩き付ける。ピシッ。鋭く粘り気のある音が響く。 「はい、あなたたちも、そっちの容器に入れてみて。」
《はいっ。》
料理係と長老は、柔らかい大豆をこぼさないように2本の足でそっとすくい、もうひとつの容器に叩き付けた。ピチッ。
「そう、上手上手。」 ピシッ、ピチッ、ピシッ、ピチッ。
ボウルの中身をすっかりすくい終えると、2つの容器が口まで一杯になった。直美はコンロの下から塩を出すと、隙間なく詰まった大豆の表面を指で平らにならし、その上に塩を振りかけて、容器の蓋を閉めた。
「あとはこのまま、涼しい場所に置いておくの。3カ月で食べられるけど、半年ぐらいが食べ頃かな。」
《ありがとうございますっ。帰ったらさっそくっ、作ってみますっ。》
そう言ってペコリと頭を下げたタコたちに、直美が言った。
「そうね、でも、これひとつ持っていきなさいよ。何のために2つに分けたと思っているの。」
直美の手からずっしりと重い密閉容器を受け取ると、2体のタコはまた深々と一礼し、にっこり笑った。それからだんだん色が薄くなり、スーッと空中に溶けるように消えていった。 直美は、ひとつ残った密閉容器を眺めて言った。
「タコだしのきいた味噌か。どんな味になるかしら。」
大豆の海に浮かぶタコを思い出す。プカプカと浮かびながら踊るタコ足、ユラユラとゆれる頭まで波打って・・・。
「ぷーっ、くっくっ。あっはっは、ひーっ、おもしろすぎるよねえ。あはは。」
込み上げる笑いにお腹をよじっていると、トゥルルルル、と電話がなった。受話器をとって、
「はい、もしもし。くっ。」
「あ、直美、何笑ってるの。」母の声だ。
「お母さん、いや、何でもないよ。っふふ。」と直美。
「何よ、気持ち悪い人ねえ。ところで、荷物届いてるの。」
そういえば昨日、母に電話をかけるのを忘れていたのを直美は思い出した。
「うん届いたよ、ごめん、連絡するの忘れてた。」
「どうだった。」と母。
「サバおいしかったよ、ありがとう。」と直美。
「そうじゃなくて、写真。」電話の向こうで母が軽く溜め息をつく。
あ、そうそう、お見合い写真ね。つぶらな瞳の二重アゴ。
「あ、見たよ。」
「どう?」と母。
「どうって、まあ、いい人っぽいね。」と直美。
「いい人っぽいって、直美、ほかに言い方はないの?」
「だって、写真だけ見たってわかんないよ。あったこともないし。」
「じゃあ、お会いしてみる?」母が少し小声になった。
「それって、お見合いでしょう。」つられて直美も声のボリュームを下げる。
「そうよ。善は急げよ。来週あたりこっちに来られないの?」ひそひそ声で、早口に母が言う。
「そーんなの、急に無理だって。」直美は声のトーンを上げた。
いかんいかん、母のペースに乗せられるところだった。
「はあー、やっぱりだめか、これがあんたの最後のチャンスかも知れないのにねえ、もったいないけどねえ。」
普段の話し声に戻って、母が言った。
「ごめんね、写真はあとで陰干ししてから郵送するわ。あのままじゃサバ臭いからね、お返しするのに失礼のないように、ちゃんとします。」
と直美。
「もう先方に写真を返さなくてもいいと思ったんだけどねえ。」と母。
「まあ、その続きはお正月に。じゃあまたね。」 受話器を置くと直美は、リビングの窓から空を見上げた。
傾きはじめた太陽が放つピンク色の光が、空一面のうろこ雲に反射してキラキラと輝いた。
「今日は鯛めしかな?」 にっこりと笑うタコたちを思い出すと、直美の顔にも笑顔が浮かんだ。
結婚。家族のいる生活。それも悪くないのかも知れない。 大きな太陽が少しづつ山の向こうに沈んでいく。秋の柔らかい光が、皮膚を通って身体中に染み渡るのを感じながら、直美はいつまでも窓の外を眺めていた。
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