プロフィール

上野 芳江

秋田県出身、東京都在住の一般人。

高校時代、知らぬまに文芸部に入部させられ、小説を書き始める。

その後、細々とお話しを作り、現在に至る。

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おひたし

「ににがし、にさんがろく、にしがはち、にごじゅう・・・。」

 夕焼け空に浮かぶイワシ雲を眺めながら、学校で習った九九を暗唱するレイコの隣で、小さなタケシが言った。  

 「おねえちゃん、ガム買ってえ。」  

 「我慢しなさい、おうちに帰ったら夕ごはんなんだから。」  

 「ちぇっ、ケチー。」  

 「ほら、行くよ。」

 口をとがらせてすねるタケシの手をひっぱって横断歩道を渡り、二つ目の角を左に曲がって3軒目。二階建ての小さなアパートの階段を登るとレイコは、203号室の前で首からかけた鍵を出し、カチャッ。ドアを開けて、

「ただいまー。」  

  二人は靴を脱いで台所とユニットバスの間の廊下を通り、薄暗い部屋の電気をつけた。押し入れ付きの6畳一間。壁際に食器棚とタンスと、背の低い本棚が並ぶ。本棚の上には15インチの小さなテレビ。部屋のまん中に正方形のテーブルと座布団が3つ。

 ランドセルを置くと、レイコが言った。  

 「タケシ、手を洗ってうがいしなさい。」  

 「はあーい。」

 台所の踏み台に上がって手を洗うタケシを確認すると、レイコはテーブルの上のメモに気がついた。  


  レイコ、タケシ、おかえりなさい。  

  ママ、今日は帰りがおそくなるから、ふたりで夕ごはんを食べてね。  

  れいぞうこにやき魚とおひたしがあるから、お魚はレンジでチンよ。  

  宿題をやったら、よふかししないで早くねなさい。  

  戸じまりしっかりね。    ママ  


 「ふーん、今日も遅いのか。」レイコは小さく溜め息をついた。

パパがいなくなったのは、レイコが5才のとき。あの日、通っていた幼稚園に、ママがまだ赤ちゃんのタケシをおぶって迎えにきて、そのままタクシーで病院に行ったんだ。大きな病院の、機械がいっぱい置いてある部屋で、パパはベットに寝ていて、細長いストローみたいなのがいっぱい、パパの鼻とか、腕とか、足とか、いろんなところに刺さっていて。でも、パパはぜんぜん痛そうじゃなかった。静かに寝ているパパの横でママが大声で泣きだしたから、レイコはパパが起きちゃうんじゃないかってすごく心配したけれど、パパは二度と起きなかったんだ。

 それから、お葬式があって、引っ越しをして、レイコは幼稚園をやめてタケシと二人で保育園に入った。夕方、ママが保育園に迎えに来るまで、ブランコに乗ってずーっと待ってたのは、高くこぐと、遠くからママが自転車でやってくるのが見えるから。ママの自転車の、前カゴにタケシ、後ろにレイコ。「夕焼け小焼け」を歌いながらの帰り道が好きだった。でも、レイコが小学校に入ってからは、夕方はタケシと一緒に学童保育。ママが迎えにくることもなくなった。「仕事が忙しくて」ってママは言うけれど。

「へーんしんっ!とうっ!」と叫んで、タケシが踏み台から飛び下りた。

「こらっ!下の部屋にひびくからやめなさい。」  

 「へーい。」

 生返事をしながらタケシがテレビのリモコンをつけると、アニメのヒーローが敵と戦っている。そのまま吸い込まれるようにテレビに見入るタケシの横で、レイコは食器棚から御飯茶碗とお椀と小皿を出し、テーブルに置いた。冷蔵庫をあけてラップのかかったお皿を3つ取り出す。大きめの深皿に、ホウレンソウとミョウガと菊のおひたし、小鉢には大根おろし、大きめの角皿にはシャケの焼いたのが2つ。

「レンジでチンね」といいながら、角皿を電子レンジに入れてスイッチを押す。ブーン、とレンジが唸り出すと、室内アンテナのテレビの中で、ヒーローに細かい横筋が入った。

 「おねえちゃん、レンジとめて。」むくれるタケシに、

 「すぐ終わるから我慢しなさい。」とレイコが、小鉢と深皿をテーブルに運びながら言う。

 「タケシ、お箸とお醤油。」 チン。電子レンジが止まると、ヒーローは敵を抱えて宇宙へと飛び立っていった。

 シャケの大皿を運び、お茶碗に御飯をよそい、お椀にフリーズドライのインスタント味噌汁を入れてお湯を注ぐレイコを横目で見て、タケシはしぶしぶ食器棚から箸立てとお醤油を持ってきた。レイコがレンジから出したばかりの大皿のラップを慎重にはずすと、焼いたシャケの香りとともに、白い湯気が立ち上った。

 「いただきます。」

 「いただきます。」

 二人は小皿におひたしとシャケと大根おろしを取り、お醤油をかけた。

 「タケシ、お醤油かけすぎ。」

 茶色く染まったタケシの小皿に、レイコがミョウガを追加すると、

 「ミョウガは要らない。」とタケシが言う。

 「食べなさい。」

 「食べない。」

 「好き嫌いしないの。」

 「嫌だっ。」

 そのまま床に突っ伏して泣き出したタケシを見て、レイコは心のなかで思った。パパの好きなミョウガのおひたし、タケシが食べてくれないよ。パパの大好物なのに。レイコとパパの思い出なのに。タンスの上に置いてあったパパの写真も、いつの間にかなくなっちゃった。だからタケシは、パパの顔を知らないんだよ。たったひとりのパパなのに。

 ママの帰りが遅いのは、あの人と会っているから。この前、夜中にママを車で送ってきた茶髪の若い男の人。ママが車から下りるときにキスしてるのが、窓から見えちゃった。慌てて布団にもぐったけれど、すぐには眠れなかった。静かに鍵をあけて、ママがうちに戻ってきたときの、甘い香水の香り。薄目を開けて見たママの顔が月明かりの中でほほえんで、知らない女の人みたいで、ちょっと恐くなったよ。もう、昔のママじゃない。

 パパに会いたいよ。パパがいた頃のママに会いたいよ。パパとママと、ちっちゃなレイコと赤ちゃんのタケシ。ママはいつも楽しそうに笑っていて、できたてのお味噌汁と、あたたかい御飯が美味しかったな。あの頃に戻れるなら、レイコ、何でもするよ。宿題もちゃんとやるし、寝る前に歯も磨くよ。ねえ、どうしたらいいの、パパ。

 泣きつかれたタケシがいつの間にか寝息をたてていた。テレビのバラエティ番組は笑いの効果音を流しつづけている。レイコは、すっかりさめてしまったお味噌汁をすすった。溶け残ったインスタントの出し汁がノドに絡んで、ちょっとむせる。軽く咳き込むと、目の奥から熱いものが溢れてきた。お椀を持ったままうつむいたレイコの目から、ひとすじの涙がこぼれ落ち、やがてそれはとめどなく流れる滝のように、レイコの頬をぬらした。

 窓の向こうで、大きな夕焼けが、今日いちばんの輝きを家々に届けながら、たくさんの屋根の間をすり抜けて沈んでいった。東の空に浮かぶ月が、ささやくように淡く光る。良い子ははやく寝なさい、と。

 深まる闇が、だんだんと月の輪郭をかたどっていく。夜の静寂が訪れるころ、満月は、突き刺すように冷たい光を放ちはじめる。 

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