プロフィール

上野 芳江

秋田県出身、東京都在住の一般人。

高校時代、知らぬまに文芸部に入部させられ、小説を書き始める。

その後、細々とお話しを作り、現在に至る。

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マチェドニア

 窓をすり抜けて、お日さまの触手が柔らかく額を撫でる午後3時。菜摘はカフェで遅い昼食をとっていた。なめらかなミートソースをまとったパスタを最後の一本まで食べ終えると、ソースに染まった白いお皿の底にドラゴンの透かし彫りが浮き上がる。大きく広げた羽の付け根からのびる2つの頭が互いに顔を見合わせている二頭龍のモチーフが気になって、空のお皿をじっと眺めていると、食後の倦怠が全身を覆いつくした。急激な眠気が店内の話し声を柔らかな音楽に変え、窓の向こうに広がるパステルの映像がゆっくりとしぼんでいく至福の時間。マスカラのブルーで青みがかったコマ送りの映像が、 まぶたの裏で淡いピンクと交じりあってぼやけていく。ちらちらと小刻みにゆれる六角形の光の玉が、目の前を飛び交いながらだんだんと形を変えると、薄紫の小さな花弁になった。

 ふと気がつくと、そこは一面のラベンダー畑。胸元までのびたラベンダーをなでるように暖かい風が通り過ぎ、甘い花の香りが菜摘の鼻孔をくすぐっていく。うっとりして空を仰ぐと、雲ひとつない水色の空に舞うのは、桃色の・・。 「鳥、って言わないよね、あれって・・。」 ゆったりと広げた二つの羽は光を受けてさくら色に輝き、尾の長い胴体はよく熟した桃のようなビロードの質感を漂わせている。そして、羽から上にのびるしなやかな二つの首の先に、二つの頭。 「二頭龍・・。」 驚いて立ちすくむ菜摘の前に、二頭龍は滑るように舞い降りた。 「おかえり、モル。」右の龍が言った。 「会いたかったわ、モル。」左の龍が言った。 「え?、モルじゃないよ、私は菜摘。」 「だからモルでしょ。まだ戻ってきたばかりで思い出せていないんだね。」 右の龍はそういうと、左の龍と顔を見合わせてにっこりと笑って言った。 「僕はビー、この子はミー。昔からずーっと、マルとモルの友だちなんだよ。」 「マルとモル。」口に出して言ってみると、菜摘はなんだか懐かしい気持ちになった。 「マルのところに連れていってあげるよ。」ビーがそういうと、ミーが左の羽の先で菜摘を持ち上げて、二つの首の間に彼女を乗せて言った。 「ちゃんとつかまっててね。」 菜摘が二つの首にしがみつくと、ビーとミーは大きく羽を広げて空高く舞い上がった。

 毛足の長いじゅうたんのようなラベンダーの薄紫をわけて、透明な水がきらきらと輝きながら流れる大地。小川の流れを遡って緑の森をめざすビーとミーに身体を預け、大地を見下ろすと、菜摘はひとつ深呼吸をした。さわやかな風の肌触りが身体の内側を駆け抜けていく。さらさらと、ころころと流れる水音が頭の中に心地よく響く。菜摘は今まで知らなかった静かな心の平安を感じていた。 「下におりるよ。」ビーがそう言うと、二頭龍は緑の森に滑り込んだ。 「ここよ。」と言ってミーが左の羽で菜摘をそっと地面に下ろしたのは、背の高い杉の木の根元。 「そろそろマルが戻ってくるわ。じゃあまたね。」 そう言うと、ビーとミーはまた顔を見合わせてにっこりと笑いながら、明るい空に飛び立っていった。菜摘は、空のかなたまで伸びているかのような大きな大きな杉の木を見上げた。はるか上方まで、無数の枝が四方に緑をめぐらしている。樹齢何百年だろうか。手を広げて木の根元に触れると、手のひらから、遠くで響く汽笛のような杉の鼓動が聴こえてきた。木の肌に耳を寄せて目をとじる。鼻から深く息を吸い込むと杉の香りが全身に広がった。細胞のひとつひとつが目覚めていくようだ。身体の内部で振動する粒子のリズムを息にのせて、口からゆっくりと吐き出していく。そしてまた新しい空気を吸い込む。深呼吸を繰り返すうちに菜摘は、自分の身体が透明な管になって、その中をただ風が通り抜けているような、そんな自然との一体感を味わっていた。

 どれくらいの時間、そうしていたのだろう。吸い込んだ空気の中に、ほんのわずかなムスクの香りが溶け込んだのに気がついて、菜摘はふと我に帰った。この香りを知っている。そう思って目を開けると、菜摘の横には1体の二頭龍が座っていた。 「マル?」菜摘が聞くと、 「うん。」と、右の龍が小さくうなづいた。マルの左の龍は、その首を羽の上にだらりとのせたまま動かない。目を閉じて眠っているようだ。 「どうして戻ってきたの?、モル。」マルが言った。 「わからないよ。ランチを食べていて、気がついたらラベンダ-畑にいたの。」菜摘が言った。 《菜摘》ではなく《モル》と呼ばれたことに、何の違和感もなかった。 「そうか、間違って光の道をのぞいちゃったんだね。でもまだ、モルのマチェドニアは終わっていないよ。」 「マチェドニア?」 「そう、マチェドニア。神様がモルにくれた宿題なんだ。思い出してごらん。」 そういってマルが右の羽で菜摘の頭を柔らかくつつむと、遠い昔の記憶が菜摘の目の前に鮮やかによみがえった。

 むかしむかし。神様がたくさんの植物や動物を作るのに、とっても忙しかったころのこと。草や木を作り終えて、空を飛ぶものや地を這うものたちを雌雄各1体ずつ、順番に作っている最中だった。あっという間に成長した木の花粉が、神様の鼻をくすぐって大きなクシャミが出た時に、産まれ落ちたのが二頭龍。一つの身体に、雄と雌の二つの頭を持つピンクの龍だった。神様はちょっと苦笑いして、二頭龍をもう一体産み落とし、二体に向かってこう言ったんだ。 「最初に生まれたものをマルとモル、次に生まれたものをビーとミーと名付けよう。おまえたち二頭龍は、一つの身体に二つの性を持ち、二つの心は一つの身体に溶け合い、生まれながらに全てを知っているだろう。おまえたちには永遠の命を与える。その代わり、宿題を出すことにしよう。」 「宿題?」ビーが言った。 「そうだ、宿題だ。一つの心と一つの性で生きることを経験しなさい。出会いと別れを知ることで、おまえたちの魂は成長し、より完全な命になるだろう。」

 菜摘の頭を覆うマルの羽があたたかい涙でぬれて、マルはそっと羽をはずした。 「思い出したね、モル。」 「うん、思い出した。私がもらった宿題はマチェドニア。混沌とした人間の社会で、他人との関わりを勉強するんだ。戻らなきゃ。」そういって菜摘はマルに微笑んだ。 「本当は、このままここにいたいけれどね。」菜摘がそう言うと、マルが言った。 「時がくれば、必ず戻ってこられるよ。モルの居場所はここなんだから。ね、モル。」マルはそういうと、自分の左で眠っている龍の首を自分の頬でやさしく撫でた。1回、2回、3回・・。何度も頬ずりをするマルを見ながら菜摘は、その度に胸の中にあたたかな喜びが広がっていくのを感じていた。 「さ、菜摘の世界におかえり。」マルが菜摘の頭をもう一度、右の羽で包むと、菜摘はまた深い眠りに落ちていった。

 菜摘の頭を覆うマルの羽があたたかい涙でぬれて、マルはそっと羽をはずした。 「思い出したね、モル。」 「うん、思い出した。私がもらった宿題はマチェドニア。混沌とした人間の社会で、他人との関わりを勉強するんだ。戻らなきゃ。」そういって菜摘はマルに微笑んだ。 「本当は、このままここにいたいけれどね。」菜摘がそう言うと、マルが言った。 「時がくれば、必ず戻ってこられるよ。モルの居場所はここなんだから。ね、モル。」マルはそういうと、自分の左で眠っている龍の首を自分の頬でやさしく撫でた。1回、2回、3回・・。何度も頬ずりをするマルを見ながら菜摘は、その度に胸の中にあたたかな喜びが広がっていくのを感じていた。 「さ、菜摘の世界におかえり。」マルが菜摘の頭をもう一度、右の羽で包むと、菜摘はまた深い眠りに落ちていった。

 カチャ、と、小さく響く音がして、菜摘はふと我に帰った。白のシャツに黒いカフェエプロンをつけたウェイトレスが、パスタのお皿を片付けている。 「あ、すみません、眠ってしまって・・。」 菜摘が言うと、ウェイトレスがフルーツの入ったガラスの器をテーブルに置きながら言った。 「いえ、こちらこそ失礼しました。デザートのマチェドニアです。どうぞごゆっくりなさってください。」 マチェドニア。フルーツを細かく切って、お砂糖とレモン、リキュールに漬けこんだデザート。イタリア語で「混雑」の意味を持つこのマチェドニアを食べると、菜摘はとても幸せな気持ちになった。シロップ漬けフルーツのキラキラした輝きが身体の中に染みこんで、細胞のひとつひとつが新しく目覚めていくような清々しい感覚が全身を包み、菜摘は思わず目を閉じた。

 そのまましばらく目を閉じてまどろんでいると、遠くの方から、いまにもつんのめりそうな勢いで小走りに急ぐ靴音が聞こえてきた。聞き慣れた靴音にふと笑いがこみ上げてくる。調子っぱずれのパーカッションのような不規則な靴音は、だんだんと大きくなって菜摘の前で止まった。 「おい菜摘、おきろっ。プレゼン10分前に寝てるヤツがあるかっ。」 目をあけると向かいの椅子に、額が後退しはじめた脂ぎったオヤジが、スーツの上着を手に持って暑そうに座っていた。 「あ、部長、おはようございます。」 「おはようじゃない、企画書は持ってきたか。」 「はい、ここに。」と言って菜摘がエンジの小振りなビジネスバッグからA4サイズの企画書を取り出しテーブルに置くと、部長はそれを待ち構えたようにとりあげてページをめくった。 「よし、数字はちゃんと直っているな。」 「もちろんです、ご心配なく。」 そういって菜摘が口の端で小さく笑うと、部長は小鼻をひろげてニヤッと笑い返した。 「よし、では行くぞ。」部長が立ち上がり、店の出口へと歩きだした。 「はい。」菜摘も続いて立ち上がると、部長の後を追いかけた。

 カフェを出ると、初夏の陽射しが街に降りそそいでいた。大通りにかかる横断歩道で信号を待ちながら菜摘は、今年も暑くなる、と思った。まばゆい太陽に写し取られたビルのシルエットが交差点に濃い影を伸ばし、通り過ぎる車の頭を優しくなでている。信号が変わると、菜摘は、何かに背を押されるように歩き出した。アスファルトの下の地面が、足を前へ前へと押し出していくようだった。軽やかな足取りで横断歩道を渡ると菜摘と部長は、濃いシルエットに吸い込まれるように、ビルの中へと入っていった。

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