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Project / Art_Field

identity auto drawings without AIに現出する人間の真実

現実世界において対象を概念化すると同時にそこには対象の自己identityが発生する

identityにはイメージを連結させることができます。
identityをイメージによって視覚表現することができるのです。
対象が時空に存在する物体の場合、その物体の形状は対象の自己identityの視覚表現となっています。
対象が人間個人の場合、その人間の身体がその人間個人の自己identityの視覚表現となっているわけです。
人間の身体自体が自己identityの視覚表現になっているのです。
identity auto drawingでは、対象であるところの物体や身体の形状ではなく、 対象イメージの直接ドローイングによって、
対象の自己identityを視覚表現しています。

対象物を視覚的に表現する場合、目に見えた形状を絵画的に表現することは、 これまで美術家が取り入れてきた表現方法です。
目に見える形状には、すでに対象物の自己identityは発現しているので、 目に見える形状を絵に描きとれば、
それでその対象物の自己identityの視覚表現となります。
対象物が人間である場合、その人物の肖像画を描けば、 その人物の自己identityを表現したアートになっているわけです。
物体としての人間を紙の上に写し取ることで、その人間の自己identity表現になっているのです。
しかしそれは、その人物の自己identityの直接的な表現にはなっていないと考えるようになりました。
人物の自己identityを物体としての身体の形状を通さずに、 直接アートに起こせないかと考え、試行錯誤した結果、
編み出した画法がidentity auto drawingです。

現実世界に存在する対象物は、その外延としての視覚的形状とそれが内包する自己identityによって認識される 

私たちがある人物を認識するとき、その人物の表象とその人物が内包する自己identityとの組み合わせによって、
その人物像を心の中で形成します。
表象をアート表現したものが人物画です。
identityをアート表現したらどうなるのかということを私は思い描いてきました。
identityを言語で表現して、それを生成AIによって画像に変換すれば、それは確かに可能です。
しかしそれは、言葉の画像への置き換えにすぎないということに気づきました。
そうではなく、心の中に現出する対象としての人物の自己identityの抽象的イメージを アートに落とし込むことはできないかと考えました。
言葉を介さずにidentityを直接アートに連結させるのです。
identityを言語表現することによって、その観念的側面が明らかになります。
しかしそれだけではidentityの実相が明らかになったとはいえません。
それを知るには、言語を介さずにidentityに直接アクセスすることが必要となってきます。
あなたの自己identityの実相を私が知るには、 あなたの自己identityに、私の自己identityを接触させればいいわけです。
AIには自己identityがないので、あなたの自己identityの実相をAIが知ることはできません。
あなたの自己identityと私の自己identityは、現実の空間を超えた階層において接触することができます。
そのためには、あなたは私と直接対面する必要があります。
私はまず、あなたという人間の存在性を知覚しなければなりません。
あなたは私と対話する必要はなく、私と対峙することが必要となります。
私はあなたと対面して意識を交差共振させることで、私はあなたの内部空間に進入することが可能となります。
あなたの内部空間に存在する情報にアクセスできるようになるのです。
情報といっても、言語情報でもプログラミング情報でもなく、 映像でもない、人間が概念として知覚できる以前の情報です。
つまり、何らかのイメージとしてとらえることができる情報です。
それがどのような意味を持つものなのかは全く知る由もありません。
ただそれを紙の上に描き取るだけです。
それがidentity auto drawingと呼ばれている描画です。
そこから概念的な意味を読み取ることは、ほぼ不可能といわなければなりません。
あなたがこの時空間に存在していることの根拠がそこに記されているのです。
あなたという存在が現実世界に表出する以前の実相がそこにあるわけです。
それをアートフィールドにおいてとらえることができます。
すべての人はアートフィールドにつながることができます。
自己のアートフィールドにつながりながら絵を描けば、それは自己identity auto drawingとなります。
自己アートフィールドの空間において展開する光景を描けば、それは自己identityのアート表現となります。
あなたの自己identity auto drawingは、あなたの存在証明となります。
あなたが現実空間に存在することは、あなたの実体としての身体を視覚したり、 触覚したり、あなたの発する声を聴覚すれば認識できます。
あなたの実体を感覚的に把握しなくても、あなたの自己identity auto drawingを見ることによって、
あなたが実際に存在していることを知ることができるのです。
私があなたのアートフィールドにつながることによって、 私はあなたのidentity auto drawingを紙の上に記すことができます。
それができるのは、私とあなたが並立的に同時に存在しているからです。
だから世界に存在しているのは、あなただけではないのです。
 

人間は自己の存在性を証明するために絵を描く 

これが、人間が絵を描く理由です。
絵を描くことと人間であることは等価だといえます。
ここに「ホモサピエンスはなぜ人間になったのか」という問いに対する答えがあるのです。
私たちは普段、自分がホモサピエンスであることをあまり認識していません。
それは、自分が人間であると認識しているからです。
私たちは人間の意識が創造した観念上の世界で生きています。
私たちはホモサピエンスの身体を保持しながらも、意識として人間世界で生きているのです。
身体としての存在性と意識としての存在性は全く異質なものです。
ホモサピエンスは、この両方の存在性を併せ持って初めて人間になったのです。
人間世界を決定付けているものが、人間特有の神話的世界観です。
私たちは知らず知らずのうちに、自民族に古来から根付く神話の世界に入り込んで生活しているのです。
identity auto drawing は、それ自体が視覚できる存在でありながらも、 それが発現しているアート性は、
それを見る人間の意識に直接作用してきます。 なぜならばアートとは、人間の意識が創造したものだからです。
神話も人間の意識が生み出したものであることから、アートと神話には共通性があるといえます。
アートと神話の源流は同一なのかもしれません。

 identity auto drawing には、それを描く人間の真実が現出しているといえます。
それは誰も包み隠すことができない真実なのです。
あなたの描く自己identity auto drawing には、あなたという人間の真実が現れています。
自分とは何者なのかと思い迷っているときは、 自己identity auto drawing を描いてみれば、
そこにその答えを見出すことができるでしょう。
鏡に写っている自分の顔を見ることで、自己存在を対象化できることと同じように、 自己identity auto drawing を見ることによって、
自己存在を客体化することができるわけです。
ある対象を描いた絵画は、その対象を表現していると同時に、その絵画を描いた画家自身を表現しています。
絵画の中で、対象物と画家自身という2つの対象が交錯しているわけです。

identity auto drawing は 対象の形状を描いたアートではないため自ずとアブストラクト性を帯びる 

何を描いた絵画なのか皆目見当もつかなくなるわけです。
ですから絵画にラベルを貼ることができなくなります。
従来の絵画のように、表現方法や技法によって分析して分類することが困難になるわけです。
時系列に沿って絵画を位置付けたとき、どこに当てはまるのかが不明になります。
これまでもアブストラクトな絵画は描かれてきました。
アメリカで起こった抽象表現主義がその一つです。
その中でも、ジャクソンポロックのアブストラクトは人間の作為性を極力排除したものとなっています。
それ故に、それらは従来の表現としての絵画とは異質な存在なのです。
構図も対象もなく何の脈絡もないが、そこには何かがあるのが感覚的に分かります。
画家が介在している事実が絵画から現出しているのです。
重力などの自然界の力やAIのアルゴリズムだけで絵を描くことはできます。
しかしそこには人間の存在は見えてこないし、単なる自然現象としての絵にしか見えないわけです。
確かに生成AIが描いた絵画は美しいし完璧に描かれていますが、 反対にリアルな生き生きとした人間性が感じられないせいか、
不確実性がなく、何か一つもの足りない作品となっているのです。
なぜなのか。そこには人間のidentityが写り込んでいないからです。
人間が直接描いた絵画には、必ず画家の自己identityが写っています。
美しくもないし未完成な絵画にも画家の自己identityは写り込んでいて、 そこから画家の生命エネルギーを感じ取ることができます。
ここまでくるとidentity auto drawingの価値観が見えてきたのではないでしょうか。
identity auto drawingは画家の生命を表現するアートなのです。
それを見れば見るほど画家の生命エネルギーを感じ取れて、その内部の世界に引き込まれていきます。
画家の自己identityと絵を見る人間の自己identityが交差して、そこに新しい世界線が発生するのです。
これであなたの絵の見方は変わったのではないでしょうか。
画家の生命エネルギーを感じ取れる絵画ほど価値が高いといえます。
生成AIが出現してから、絵に対する価値観は変わりました。
生命エネルギーが写り込むidentity auto drawingは、人間であればだれでも描くことができます。
絵を描く技術力が高いか低いかではなく、生命エネルギーの発出が高いか低いかで、絵の価値を判断するのです。
それゆえにidentity auto drawingは画家のキャリアや知名度などの権威とは無縁の民主的なアートだといえます。
いわばアート3.0ということになります。
美しく非の打ち所がない完璧なデジタル絵画は、生成AIでも描けます。
しかし、アートとしての価値はすでにそこにはありません。
なぜならば、生成AIには自己identityが存在しないため、 生成AIが描いたデジタル絵画は、生成AIを表現していないからです。
生成AIには生命エネルギーが発生しないため、 生成AIが描くデジタル絵画には、画家のリアリティーが写り込んでいないからです。
それはidentity auto drawingになっていないのです。 人間が直接描いた原画が、最もリアルな生命エネルギーを発出しています。
生成AIのアルゴリズムを人間がプログラミングしていたとしても、 絵画のドローイングに人間が直接関与していないため、
人間の生命エネルギーが生成AIの描いたデジタル絵画に入り込む余地はないのです。
identity auto drawingは人間でなければ描くことができないことから、
人間であることの真実がidentity auto drawingに在るといえるわけです。
identity auto drawingに画家の人間としての真実が写し出されているのです。
一人の人間が一つのidentityと対応しているように、identity auto drawingは一人の人間に対応しています。
しかし、何をどのように描けば、identity auto drawingになるのかという疑問が残るかもしれません。
その疑問に一言で答えるならば、「アブストラクトアートを描け」ということになります。
アブストラクトアートには対象の表現という概念があてはまりません。
なぜならば、アブストラクトアートの多くは、対象を描いた絵画ではないからです。
アブストラクトアートは、風景画や人物画、静物画のように、 現実の空間に存在する対象物をアートとして表現した2次的絵画
(アートの内部に擬現実を入れ込むという意味でこう呼んでいます)とは異なり、 それ自体が現実空間に所属する対象となっているのです。
アブストラクトアートには2次的絵画のような入れ子の構造がないのです。
その意味ではアブストラクトアートは、1次的絵画と呼んでいいかもしれません。
現実空間に存在する、即ちすでに表現されている対象を紙の上に再表現するアートではないからです。
表現された対象を再表現するアートではないという意味で、1次的といっているわけです。
私がアブストラクトアートをクリエイトするときに心がけていることは、何かを表現しようとしないことです。
とにかく何も考えないで、直観と感覚だけを頼りに素早く手を動かすのです。 脳に考える時間を与えずに、考える前に手を動かします。
自分自身を自然環境と一体化させて、為すがままオートドローイングが行われます。
無心になることによって、現実の対象物から離れることができます。
それが絵画自体を環境に包含されることを可能にします。
絵画のタイトルは後付けであり、それを表現しようとして描いたアートではありません。
描いた後に見て、その絵が何に見えたかによって付けたタイトルなのです。
絵の見え方は人それぞれであり、解釈も固定したものではありません。というよりも解釈は必要ありません。
目に見えたままを感じ取ればいいわけです。
アブストラクトアートは何らかの対象を表現していないので、絵を言葉に置き換える必要はないからです。
絵を感性だけでとらえればよいわけです。
これは自然界を見るときも同じです。
私たちは自然の絶景を感性で見ます。 それと同様の見方をすればよいわけです。
このような意味から、クリエイターはアブストラクトアートによって、 自然界に存在しない新しい風景を創造しているともいえます。
ホモサピエンスが約1万5000年前に描いた洞窟壁画は現在でも見ることができます。
それは当時、人間がその場所に存在したことを証明する風景です。
当時の人間には表現芸術という概念が無かったにも関わらず、 彼らは抽象化された象徴的な壁画を描いていたことが分かります。
アートとは人間の中に自然発生的に生まれた領域です。
アブストラクトアートは現実空間に存在する対象を再表現しようとしてクリエイトされたアートではないのですが、
結果として画家自身が表現されたアートとなっているのです。
その意味から、アブストラクトアートは画家のidentityが顕著に現われた存在だといえます。

アブストラクトアートは画家の自己identityだけを写し込む絵画だ

画家以外の人間の自己identityは、写し込むことはありません。
それ故に、人間と自己identityとidentity auto drawingを紐付けすることができるわけです。
二人の人間の差異は、それぞれの自己identityの差異と、 それぞれのidentity auto drawingの差異と、
それぞれの身体性の差異に現出します。 一人の人間が描いたidentity auto drawingには同一の傾向が現われます。
一人の人間の自己identityを言語で表すことは至難の業ですが、 identity auto drawingにはそれがストレートに現われています。
人間が発する声紋や人間の指紋が人それぞれ相違なるように、 人間が描くidentity auto drawingは人それぞれ相違するのです。
人間は日々思考しながら生きています。 同一の社会で生きている人間には、大きな思考上の相異はないでしょう。
それならば人間として大きな差異はないのかと疑問に思われるかもしれません。
人間は明らかに千差万別であり、それぞれの自己identityは大きく異なっていると感じられます。
それをどう何によって表現すればよいのかと考えることがあります。
自己と他者は何がどのようになぜ異なっているのか思考するわけです。
二つの水分子はH₂Oとして全く同じですが、二人の人間は全く同じではありません。
それは二人の人間が描くidentity auto drawingを見比べれば一目瞭然です。
identity auto drawingは事実として客観的存在となっているのです。
ですから「人間とは何か」の答えがそこに在るのではないでしょうか。
生物としての人間は身体が事実としてその客観的存在となっています。
しかし、人間の自己identityの相異の客観的事実とは何かと問えば、 それはidentity auto drawingとなるのです。
その意味から私たちはidentity auto drawingを描くことによって、 人間としての自己を認識することができるわけです。
すなわちidentity auto drawingは、人間としての自己の写し鏡になっているのです。
自分が人間であるかどうかを検証するには、identity auto drawingを描いてみればよいでしょう。
それは一人一人の人間の認証になっているからです。
ですからidentity auto drawingによって、個別の人間を識別することが可能となるのです。
一枚のidentity auto drawingは、今生きているその人にしか描けないという意味から、
identity auto drawingは、その人の生命と等価であるといえます。
その人の命と同等の価値がidentity auto drawingにはあるわけです。
生成AIが描いたアニメーションのような美しいデジタル作品とは一線を画していることが分かります。
生成AIはアルゴリズムを通して作品を生成します。 ですから同じアルゴリズムがあれば同じ作品を生成することが可能となります。
人間は何によって作品を描画生成するのでしょうか。
人間は生来備わっている大脳によって作品を生成します。
大脳は全ての人間に備わっているので、全ての人は作品を生成することができます。
大脳のある部分が生成AIのアルゴリズムと同様の役割を担っているわけです。
大脳の組織構造に人間個体ごとに差異があるため、描画生成する作品も人間個体ごとに相違してくるのです。
ただ人間の場合は、脳にあるアルゴリズムだけで作品を生成しているのではなく、 プラスアルファの働きによって作品を生成しているので、
同一の作品は二度と生成できません。
プラスアルファの働きとは何かと問えば、それは人間の意識の作用です。
刻一刻と人間の意識は変動しているため、生成する作品も時を追うごとに異なってくるのです。
生成AIが生成する作品は、時とは無関係に同じ作品となります。
つまり人間の生成する作品には時間軸が存在するが、 生成AIが生成する作品には時間軸が存在しないといえるわけです。
人間の脳に時間軸が存在するのは、人間が生きているからです。
生成AIに時間軸が存在しないのは、生成AIが生きていないからです。
それゆえに人間は、生きている限られた時間の中でしか作品を生成することができないため、 人間が生成する作品の数には限りがあるのです。
生成AIは時間に縛られないため、アルゴリズムさえ起動させれば、 いくらでも多くの作品を生成することができます。
そうすると、生成AIが生成したデジタル絵画は一体誰の作品なのかという問題が浮上してきます。
アルゴリズムのエンジニアの作品なのでしょうか、それともAI自体の作品なのでしょうか、
あるいはアルゴリズムを発案したディレクターの作品なでしょうか。
作品の生成には多くの立場の人と生成AIが関与していることから、 AIが生成したデジタル作品は、
映画やアニメーションのような位置付けとなります。
しかしながら、AIが生成するデジタル作品は人間の生成する絵画作品のように、
全く無の状態から創造するのではなく既存の素材を基にして生成することから、 完全なる創造作品ではないわけです。
AIが作品を生成する仕組みが、人間が絵画を描く場合とは異なっているのです。
AIの場合は、どちらかといえばグラフィックデザインの手法に近いといえます。
版画という手法はAIの生成手法に近いと考えられるかもしれませんが、 版画は作品の製作過程に人間の手が介在していることから、
そこには時間軸が発生しているのです。
人間の手によって刷り出される版画は、一枚一枚が全て異なっていて、どれ一枚同じ作品は存在しないわけです。
デジタル作品は何点でも複製することができますが、 人間が創造した非デジタル作品は完全な状態で複製することはできません。
複製してしまうとオリジナルとは違ってしまうので、オリジナル作品と複製作品との区別がつきます。
ですから人間の創造した非デジタル作品は唯一無二の存在ですが、 AIの生成したデジタル作品は、
たとえそれがブロックチェーン上で唯一無二であっても、 本当の意味では唯一無二の存在とはいえないわけです。
それは一人の人間が唯一無二の存在であることと同じ意味です。
なぜデジタル作品は完全に複製することができて、非デジタル作品は完全複製ができないのでしょうか。
一言でいうとデジタル作品はアルゴリズム化できるのに対し、 非デジタル作品は人間の手ではアルゴリズム化できないからです。
デジタルの世界を創造した主体は人間ですが、現実世界を創造した主体は人間ではないからです。
ですからデジタル世界上の作品を人間は複製できますが、 現実世界上の作品を人間が複製することは不可能なのです。
もしそれができるならば、人間は現実世界自体を複製することができてしまいますから、 人間は神のような存在になってしまうわけです。
デジタル作品はある意味で現実世界上には実存していないのです。
デジタル世界は人間の脳が創り上げた仮想的世界です。
ですからデジタル作品には実体がないことになります。
その意味から、デジタル作品は仮想通貨と同等の存在性を有するといえるでしょう。

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