ART & ALTERNATIVE                           

プロジェクトの概要と主旨

自己の意思を排除しオートマチックにドローイングをするとき、結果は全く予想もつかず思いもよらない描画が描き出される。
描かれた絵を見て、一体だれが描いたのかと疑ってしまうことがある。
自分で描いたことは間違いないのに、自分が描いたことが信じられない。
このギャップには驚かされてしまう。
この事実からArt Fieldに存在する画家としての自己は、普段認識している自己とは異なることがわかる。
コンピュータやAIを用いて自動生成された絵画は、自然現象(重力や化学反応など)によって発生した絵画と同じ仕組みで製作されると考えてよいだろう。
それらは人間の手による表現ではない。
何をも表現していないアートである。
その違いを認識実感してもらうために、identity auto drawingを各個人に実体験してもらうことが、このプロジェクトの主旨だ。
identity auto drawingを実体験することで、だれもが自己のArt Fieldの存在に気付き、自己の真実に驚愕することだろう。
identity design研究所との共同事業としてこのようにして自己identityは、視覚化することができる。
視覚化された自己identityは、デジタル画像として保存できる。
それをNFTとしてミントすれば、自己は自己identityファイルをブロックチェーン上に保有することができる。
画像とともに、自己identity情報および自己DNAの遺伝子情報を自己identityファイルに格納して、NFTとして自己が保有することも可能となる。
自己は自己identityをウォレット上に資産として保有することができるのだ。
自己は、自己identity情報から自己のアバターをメタバース上に生成することができる。
自己が身体を失ったとしても、自己identity情報はブロックチェーン上に半永久的に保存することができる。
自己は情報として存在し続けることが可能なのである。
このように各個人が自己identity情報をウォレット上に保有するサービスをWeb3上で展開するプロジェクトをローンチする予定だ。
現実世界で唯一無二の存在である自己identityは、このようにして仮想空間内で客観的対象として生成することができる。
これを戸籍上の名前と紐づけておけば、各人物の肖像は半永久的にアーカイブされることになる。
私たちは各個人の生きた証人となるとともに、個人の尊厳を守るためにこの事業をプロジェクトした。
各個人が身体的に人類という生物種の一員として生存していることは事実だ。
それ故に誰しもが種の保存、存続に貢献しなければならないといえる。
しかしながら、各個人を一人の人間として見たときには、あくまで一人の個人として存立している。
各個人には、それぞれの世界が成立していて、その中で独立した一個人として生存している。
だから個人は集団のためにいるのではなく、個人は集団の犠牲になる必要はない。
しかしながら、個人は意識的成長の過程で個を超えることは必要である。
なぜならば身体は空間において点のような存在であるが、個人の意識は空間においては広がりのある平面のような存在だからだ。
意識の平面には全人類の意識が存在していて、全ての個人は意識の平面を共有している。
だから意識としては、人類は個(クラスター)の集団となっているのではなく、ひとつの平面を形成していることになる。
意識とは、個とそれを含む全体平面という二つの存在性を有している。
身体と意識の個としての存在性のゆえにidentityは個的な性質を帯びている。
個人を集合の元(点)と見たときに、identityは単射写像として考えることができる。
ここでそれをfで表せば、個人x、yに対してそれぞれのidentity fの像 f(x)、 f(y)は異なるからだ。
f(x)、f(y)の拡張としての平面F(x)、F(y)は一致する。
私たちは二人の個人のidentityの像の相異を一瞬にして認識してしまう。
それは、個人が個人と対峙するとき直感が働くからだ。
 自己は、他者のidentity像を見分けることができる。
だから本来identityとは言葉で表現され得るものではないのだ。
海岸に落ちている砂粒には、1個として同じものが無いように、地球上に生存している(あるいは過去に生存した)個人は、 一人として同じ人間はいない。
ひとりひとりの個人の違いを表現する函数がidentityなのだ。
あなたのidentityと呼んでいる対象とは、identity函数によるあなたの像だ。
identity auto drawingを描いてみれば一目瞭然のように、identity像は描画の中に顕著に現出する。
また、その人物の行動や発言や思想の中にも現れる。
だが、これこそがidentity像だといえるものはない。
identityとは対象化される実体ではないからだ。
だから私はidentityを函数として位置付けた。
identity像とは、電子雲のような存在性を有するといえるだろう。
identity像とは現実空間の表象として現れるものだ。
現実空間の表象とは、物質的身体、思考、行動によって起こる現象である。
それらの総体としてidentity像は形成されている。
つまりidentityは、あなたの自己を現実空間というスクリーン上に映し出しているのだ。
それを私たちは観測して、それこそが自己のidentityだと認識している。
しかし実際には、identity像は自己ではなく自己の像だ。
 なぜ私とあなたのidentity像は異なるのか。
それは私の自己とあなたの自己が一致していないからだ。
私とあなたの自己が異なるとは何を意味しているのか。
自己とは、世界を観測する主体である。
私たち個人は、それぞれ世界というスクリーンを有している。
そのスクリーンに写し込まれているのが自己identity像なのだ。
それぞれの自己は自己identity像とリンクしている。
 identity像とは自己そのものではなく、自己がスクリーンに投影された映像である。
このような見方をすると、自己そのものの捉え方が変わってくる。
あなたのidentity像は、あなたの物質的身体と同じように現実空間における現象であって、それはあなたという対象を表現しているが、
あなたそのものではない。
それでは、あなたの自己とはいったい何なのだろう。
それが生命存在の根幹に関わることは明らかだ。
自己とidentity像を結ぶリンクが切れたとき自己は生命を失う。
しかし自己そのものは引き続き存在し続ける。
私たちは普段、自己identity像を見ながら生きているので、スクリーン上の自己像を自己だと思い込んでいるが、実際にはそれらは映像であって実体ではない。
私たちは映画を観ているときスクリーン上の映像はあくまで光のモザイク現象であって現実の表象ではないことを理解している。
しかしながら、現実の現象でさえ現実という名のスクリーン上の表象であることを理解しなければならない。
スクリーン上の映像に目を奪われてしまっては、いつまでたっても心の平静を得ることはできないだろう。
自己identity像から離れて、自己へと向かって自己へとたどり着くことができたならば、本当の自覚は得られる。
私たちは自己identityを探し求めているうちは、自己にたどり着くことはできない。
それとは反対に、自己identityを手放し離れることで自己を覚ることができる。
自己identity像に執着しているうちは、眼は曇ってしまい、自己の真実に目覚めることはない。
確かに自己とは何者なのかという疑問は、人が生きているからには発生する。
しかし、いつまでたっても核心的な答えが得られないのは、結局自己とは何者でもないからではないか。
自己は自己でしかない。それが答えだ。人間ではない生物は、自己を追い求めるようなことはしない。
それは自己とは何者でもないことを彼らは知っているからだ。 だから彼らは自己であり続ける。
彼らに迷いはない。修行僧は一生かけて自己にたどり着こうと必死にもがく。
しかし現実の世界に自己は存在しない。
それゆえに彼らは瞑想することで深く内面に入り自己に至ろうとする。
しかし内面に深く入り込んでいっても、自己を見つけることはできない。
自己は内面には存在しないからだ。 内面ですら自己identity像でしかないからだ。
内面は自己の投影なのだ。 だから内面をも手放して、そこから離れなければ自己の姿は見えてこない。
自己の真理にたどり着けた個人は幸いである。
それこそが人間の生きる目的だからだ。
 identity像からその原像としての自己をたどることはできるのか。
 identity auto drawingは自己identity像である。
これは自己に直結していて、現に視覚でとらえることのできるものだ。
自己があるからこそ、そのidentity像としてのidentity auto drawingは発生する。
 AI(人工知能)のように自己がない存在にはidentity像は発生しない。
どのような絵であろうと、人間個人の描く絵にはその個人のidentity像が現出する。
筆跡は人を表わすといわれるが、絵もそれを描いた画家を表現している。
 identity auto drawingはどのようにして描けばよいのかと問われるかもしれない。
私の10年以上に渡る実践経験から述べさせていただくと、先ずは、現実世界における対象(人物、物体、風景、情感、概念など)を描くことではないということをご理解いただきたい。
絵の中に現実世界の或る場面を切り取って表現することではない 。
このように考えると、それは絵ではないのではとお考えになるかもしれない。
確かにこれまでの絵画の概念から逸脱しているように思える。
しかし私はそれをアルタナティブアートという枠の中に分類したい。
アルタナティブアートは、ある意味で既存のアートの概念を超える存在である。
これまで画家は現実世界に存在する対象物やある一定の概念をキャンパスの上に表現してきた。
それに対してアルタナティブアートは何も表現しない。
そのため既存のアート(現代アートを含め)とは一線を画している。
対象を表現する既存の絵画は生成AIによって代替できる。
なぜならばそのような絵画は現実世界の存在物の組み合わせによって描かれているからだ。
そうなると絵画表現という概念自体が成立しなくなる。
それに対してアルタナティブアートは対象物の組み合わせや概念の表記によって描かれるのではなく描かれるプロセスには全く計画性(アルゴリズム)がない。
そこに在るのは人間個人による即興的な美的行為のみだ。
人間の感性だけで描かれた絵画がアルタナティブアートだ。
そこに在るのは現実世界における何かの対象物の代替としての表現ではなく、人間の感性的美だけである。
端的に言えば美そのものを描いた絵画がアルタナティブアートだ。
人間ならば個人差はあるとしても、誰でも美を感じ取ることができる。
美とは感性でとらえるものであるから、美的感性が無ければ美は感じられないし、美を描くこともできない。
だからあなたが美的感性の持ち主ならば、アルタナティブアートを描くことは容易いだろう。
たとえ美的感性が無くても、描いていくうちに美的感性は培われていくはずだ。
美をつくり出す技術のことを美術と呼んでいるが、正に美術を身に着けることができる。
それは対象物を目に見えるままそっくりに描く写実的な絵画とは対極に位置する異質な絵画である。
対象物を写実的に描く技術は必要ない。必要なのは研ぎ澄まされた鋭敏な美的感性だけだ。
対象物を具体的に描く絵画には表現が含まれるため、それを解読していかなくてはならない。
だから美のリアリティは二の次となり、絵画の背景にある文脈を読んでいくことになる。
絵画を知識で読んでいくことになり、知識がない人には絵画は理解できない。
確かに一つの作品を文脈を追って歴史的に理解することは重要かもしれない。
その上にアルタナティブアートの概念が成立するからだ。
しかしアートには生物学で用いる進化という概念があてはまらないし、アートは科学のように進歩するものではない。
つまり歴史的に、即ち時系列的に後の方でつくられた作品の方が、それよりも前につくられた作品よりも優れているとは限らないからだ。
現代の抽象表現とプリミティブアートの共通項は明らかに見て取れる。
それは、作品をつくる人間自体が時代を追うごとに進歩という物差しで測れないからなのかもしれない。
科学や文明は進歩していても人間は進歩していないのだ。文明が高度に発達すればするほど、人間という存在は劣化しているように見える。
現代アートには、アーティストによる説明が必要である。
説明がないとその作品が何を主張しているのかが明確でない。
しかしアルタナティブアートには説明の言葉は必要ない。
見たままを感じ取ればそれでよいのだ。 作品は何も主張していないし、ただそこに在るだけだからだ。
自然界の存在物には形態がある。
私たちは形態を認知して、あれは何々だとラベルを貼る。
存在物にはなぜ形態があるのかと問う人はいないかもしれない。
なぜならば形態のない世界など見たこともないからだ。地球自体が球体を成しているではないか。
しかし宇宙が開闢した当初は形態のない世界が広がっていた。
空間にプラズマが浮遊しているだけだったからだ。
その時代に画家がいたとすれば、具象的な絵画は描くすべもなかったはずだ。
アルタナティブアートとは、その時代に逆行したアートだと考えてよいかもしれない。
あえて形態を排除しているからだ。 何もない空間を描いたアートだということもできる。
しかし画家は何も無い空間を見て描いているわけではない。
頭の内部に広がっている意識の空間を描いたといえば話が通るだろうか。
アルタナティブアートに人間の精神が作用していることは否定できない。
その意味ではアルタナティブアートはサイケデリックアートと言い換えてもよいだろう。
ただ美を描いているのではなく精神的作用を描いているわけだ。
アルタナティブアートを見ることによって精神は作用を受ける、そこに個人のidentityが深く関与してくることは、いうまでもない。
「ただ好き勝手に落書きしているだけではないか」と見る人は、一度アルタナティブアートを自分の手で描いてみるといいだろう。
一回で、あなた自身のサイケデリックな世界に引き込まれるはずだ。
意識の空間には形体のある対象物は存在しない。
夢の世界を描いたとしても夢の世界の対象物は明確な形象をもたない。
アルタナティブアートを現実の空間に存在させることによってそれは現実の一部となる。
アルタナティブアートは人間のつくったモノリスのような存在として実存するのである。
猿は絵を認識することができないので、あくまでも物体としてしか見れない。
作品をアートとして見るのか、あるいは物体(モノリス)として見るのか、その違いは大きいといえる。
意外に思われるかもしれないが、アルタナティブアートは物体とし認識してもらいたい。
たとえば岩壁にアルタナティブアートが描いてある場合、それを絵ではなく壁として見るのだ。
これがアルタナティブアートの考え方だ。作品を敢えてアートとして見ないのだ。
これがアルタナティブたる所以である。 従来のアートの枠を拡大しているのだ。
アルタナティブアートは、従来のアートの概念を破壊しているともいえる。
アルタナティブアートが理解できてしまうと既存のアートは無意味なものに見えてしまう。
それらは過去の遺物になってしまう。 自然界の力(風力や重力、電磁気力、水力など)によって自然現象を起こし、風景や生物を形成してきたように人間は自らの手によってアルタナティブアートを形成する。
アルタナティブアートは絵画ではなく現象である。
アルタナティブアートは芸術ではなく現象である。
人の手による現象である。 個人のidentityがつくだす自然界の風景である。
だからアルタナティブアートを絵画として見ないでいただきたい。
既存のアートの延長線上にはないアートである。
アルタナティブアートをアートの時系列で見たとき、過去にこのようなアートが存在していたのでないかと問われるかもしれない。
20世紀のアメリカでおこった現代抽象表現主義に含まれるのだろうか。
確かにジャクソンポロックが描く絵画に分類されるかもしれない。
しかしポロックの描く絵画とは本質的にプロセスが相違しているのだ。
ポロックは、ローラや滴下などを用いてランダムに描いているのに対してアルタナティブアートは一筆一筆、一点一点を手で描いているからだ。
だからアルタナティブアートには少なからず人間の意識が作用している。
個人の意識は個人のidentityと強力に結びついているのでアルタナティブアートは個人のidentityの投影だといえる。
だから過去の抽象表現主義とは一線を画しているのだ。
既存のアートに分類できないところがアルタナティブアートと呼ばれる所以である。
アルタナティブアートは既存のアートの概念を拡張したアートである。
identity auto drawing は、既存のアートの概念では捉えきれない絵画だ。
これまでのアートの枠から飛びだしているからだ。
個人の自己identityから発出しているため、これまでの芸術理論で説明することは難しいといえる。
それらは芸術ではないが超芸術である。
このような意味からアルタナティブアートと呼んでいる。
自己identityと、ひも付けて考えたときに価値が見いださせれ、資産となる。つまり単なる絵画ではないわけだ。
自己の存在を確認するためのプロジェクトとなっている。
自己とは本当の存在するのか疑問に思っている人はidentity auto drawingを描いてみるといい。
そこには、はっきりと自己像が描かれていることが分かる。
本プロジェクトに参加することで自己を再認するこになるだろう。
自己とは何かを誰もが分かってはいない。
自己を理解するにはアルタナティブアートを描いてみればいいのだ。
描いているときに、自己が出現する。
描いている主体が自己である。
自己なくしでは、アルタナティブアートを描くことはできない。
だから失われた自己を回復したいとき、アルタナティブアートを描けばいいのだ。
自己の存在レベルに応じてアルタナティブアートの表現も変移する。
自己を超越した主体の描くアルタナティブアートはそうでない人のアートとはまるで違う。

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