プロフィール

上野 芳江

秋田県出身、東京都在住の一般人。

高校時代、知らぬまに文芸部に入部させられ、小説を書き始める。

その後、細々とお話しを作り、現在に至る。

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ペペロンチーノ

 オフィス街の裏道に、ひっそりと佇む一件家があります。白い壁に木枠の格子窓、その下に、猫が出入りするような小さな扉があって、ときどき風に吹かれるみたいに、パタパタと開いたり閉じたりしています。そのとなりに、子供がひとり通れるくらいの背の低い茶色のドアがありますが、ここはいつも鍵がかかっています。ドアノブに下げられた小さな黒板には、こんなメッセージ。

「ようこそレストラン・ペペロンチーノへ。  

   営業時間は午後2時から4時までです。  

   お食事の方はノックをして下さいね。」

「ノックをしてくださいね、か。」 

 茶色いドアの前で、しばらく立ち尽くしている若い男がひとり、溜め息をついています。もう5分程たっているでしょうか。車も人もほとんど通らない脇道とはいえ、そろそろ動かないと近所の人に怪しいやつだと思われる。その途端、手が動いていました。

  トントン。 

「はい、どうぞ。」  

  ノックの音と同時に開いた茶色いドアの向こうで、赤・黄・緑の帽子を被った3人の小人が、にっこり笑って出迎えています。男は促されるままに、ドアの中へと入りました。

 正面の壁に描かれた色とりどりの花畑を照らす柔らかな光が、天井の明かり取りの窓から差し込んでいます。窓の真下にはテーブル席がひとつ。長年使い込んだらしい木目の丸テーブルに、大きさやデザインの違う椅子が5つ、置いてあります。 

「お好きな席へどうぞ。」 

  赤い帽子の小人がそう言うと、黄色と緑色の二人はテーブル席の左側にあるカウンターキッチンから、コップ一杯のお水とメニューを持ってきました。 男はアーチ型の背もたれのついた丸椅子に座ると、渡されたメニューを開きました。  

 =メニュー=

 ・ ペペロンチーノ<大>

 ・ ペペロンチーノ<中>

 ・ ペペロンチーノ<小>


  =ペペロンチーノはトウガラシとガ−リックとオリーブオイルのパスタです。 

  辛いのがお好きな方には「トウガラシ増量」も承ります。=

「ペペロンチーノだけですか。」 不審そうな顔で男が聞くと、 

「はい、ペペロンチーノだけです。」 にっこり笑って、3人がうなずきました。 

「では、ペペロンチーノ<中>をください。」 男が言うと、 

「トウガラシは増量なさいますか。」 赤い帽子の小人が聞きました。

「いえ、普通でいいです。」 男が答えると、 

「かしこまりました。」 そう言って3人は、楽しそうにカウンターキッチンへと消えていきました。

 カウンターキッチンの向こうで湯気が立ち昇り、ザッ、と、パスタの広がる音がします。それから、ゴリッとガーリックをつぶす音。フライパンにオリーブオイルを注ぐ音。カウンターの下で小さなシェフたちが忙しく働く音を聴いていると、男の顔にもいつしか笑みが浮かんでいました。ふと顔に違和感を覚えて頬に手を当てると、男は思いました。そういえば、いつから笑っていなかったんだろう。

  表通りにある大きなビル。ゆるい坂を登り切ったところにあるそのビルの7階に、男の席があるのですが、今はどうなっているのか、わかりません。先週一度、出勤簿を提出するために夜間に出社したのですが、同僚たちが帰った後だったので、多分ここが自席だと思った席で書類を書いて、上司の机に上げてきたのでした。誰もいないオフィスのワンフロア。節電モードの薄暗がりにたったひとり。どうしてこんなことになってしまったんだろう。去年の今頃は、ちゃんと朝に出社して、仕事をして、夜には同僚と飲みにいって愚痴を言う、そんな普通の生活だったのに。

 朝になると身体が重くて起きあがれない。無理をして出かけても、息切れして駅の階段を登れない。電車に乗ると吐き気がして、すぐ次の駅で下りてしまう。遅刻して出社した自分をいたわる同僚の目が恐くて、うつむいてしまう。仕事上の業務連絡を聞くと、心の中を掻きむしられるような悲しみでどうしようもなくなる。上司の声が騒音のように頭に響いて、まっすぐ立っていられない。そしてまた、朝が恐くなる。その繰り返しで、いつしか会社に行けなくなって、はや数カ月。今日こそは、そう思って出てきても、会社の近くにくると足が止まってしまうのです。風が強いから、日ざしがきついから、のどが渇いたから、銀行で振り込みをしないといけないから、、エトセトラ。理由はいろいろあるものです。そして今日は、午後2時をまわったのにまだお昼を食べていなかったので、ここのドアをノックしたのでした。

「お待たせしました。」 

 いいにおいとともに、赤い小人がペペロンチーノを運んできました。

 その後ろから黄色と緑が、フォークとスプーンを持ってきて、男に渡しました。

「さあ、召し上がれ。」

 「いただきます。」

 ひと口食べると、口の中から顔いっぱいに、ガーリックの香ばしいにおいが広がります。もうひと口食べると、トウガラシの辛さが鼻から頭へと抜けて行きました。次のひと口が、オリーブオイルの青くてまろやかな味をのどから胃へ届けて、そして、お腹がいっぱいになる頃には、身体中の血がサラサラと涼しげに流れる音が聴こえるようでした。

「ごちそうさまでした。とてもおいしかった。」

「それはよかった。」 3人の小人たちはうれしそうに笑いました。 

「どうしてペペロンチーノしか作らないの?」 男が聞くと、3人は顔を見合わせて言いました。 

「どうしてって、僕らはペペロンチーノだからさ。」 

「・・・そうか、君らがペペロンチーノだからなのか。」

 真顔で答える3人を前に、よくわからないまま納得した男でしたが、なんとなく、それ以外に理由はないのだ、と思えてきました。 

「それに比べて、僕はいったい何やってるんだろうな。」 

 男が呟くと、赤い小人が言いました。 

「何やったっていいんだよ。やらなきゃいけないことなんて、ないのさ。」  

 すると、黄色が言いました。 

「いや、あるさ。息を吸ったら吐くことと、ときどき食事をとることさ。」   

 最後に、緑が言いました。 

「それと、夜は眠ることさ。」

 にこにこと笑う3人に見送られて外に出ると、街路樹が気持ちのいい木かげを、男の行く手に伸ばしていました。木もれ日の中を歩く男の背中に、ほんのわずかに、透明な羽がはえていました。

「どうして引き止めなかったんだい。やっと見つけたのに。」   

 黄色いガーリックの精が言いました。 

「あせることもないかと思ってさ。こないだの戦争であいつが消えてからまだ60年。思ったより早い復活だったな。」 

 と赤トウガラシの精。 

「そうだな、でも俺達ももう700才だからな。そろそろ究極のペペロンチーノを食べないと身がもたないよ。」  

 緑のオリーブオイルの精がぼやきました。 

「ま、どっちにしても、あいつが自分で気がつかなきゃ、仕方ないのさ。それまではパスタの精がいなくても、俺達3人で頑張ろうや。」 

 赤トウガラシの精はそう言うと、ドアのプレートをはずして、窓の下の小さな扉を押し開け、勢いをつけて店の中に滑り込みました。

 「おい待てよ。ひとりで帰るなよ。」  

 ガーリックの精とオリーブオイルの精もあとに続きました。

  夜、明かり取りの窓から差し込む月の光を受けて、壁の絵がキラキラと輝いています。色とりどりの花に埋もれて絵の中で眠る3人の小人たちは、どんな夢を見るのでしょうか。

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