EARTH CREATIVE株式会社
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Mural(壁画)とは何か。
考えたことがあるだろうか。
壁に描いてある絵のことじゃないの。
とすぐに答えが返ってきそうだ。
私の目から見れば、人間の手で絵が描かれていなくても、壁そのものがMuralとしてとらえられるのだ。
壁に見える表象は、自然現象が描いたMuralだと考えることができるからだ。
自然現象によって表面が剝がれたり汚れたりしてできた壁面の表情は、
それ自体自然現象が作り上げた作品となっている。
芸術作品を創造するのは人間だけではない。
ここではMuralは壁画という意味ではなく、壁という意味で用いている。
岩壁に彫刻を掘り出すことがある。
仏像が壁に彫られていれば、仏様が岩壁から浮き出しているように見える。
これもMuralである。
人間が彫らなくても、自然の風雨の力で仏像のような形象が形成されれば、それもMuralだ。
ここではidentity auto drawingによって壁の表面の様相を創造しようとしている。
壁に描く絵画をdrawingするのではなく、壁そのものの表情を作り出そうとしているのだ。
だから想像した作品はデジタル化した壁だと見ていただきたい。
壁に描かれた絵画ではなく壁そのものだ。
壁紙ではなく壁だ。
なぜ壁にこだわるのか。
壁には多少の凹凸があるが、大まかには壁は平面(2次元)だからだ。
だから壁を四角いフレームの中で見ると絵画に見える。
特に岩壁は秀逸なる芸術作品として見えてしまう。
岩壁は自然の風化現象によってつくられた作品であり、そこまでたどり着くのに長い時間を要している。
岩の山にしても同じことがいえる。
岩山の形状は美しく芸術性を帯びている。
だから山は神性を持ち、人々は山に惹かれ山に登ろうとする。
山々の美しさに比べたら人間の創造する作品などは足元にも及ばないだろう。
自然現象によって形成された岩壁や岩の柱と人工物体との相違は明白であり、
それゆえにモノリスを自然界に設置すると、その存在性は際立って見える。
人間の手が加わった人工物は自然界の物体とは様相を異にするのだ。
しかしながら私は人工的な壁を作り出そうとしているわけではない。
それよりもむしろ人の手が加わっていない自然物のような壁をつくろうとしている。
人間の手で作り出した作品をアートと呼ぶのならば、私が作りたい作品はアートではないのかもしれない。
だから私が創造しようとしている作品はアルタナティブアートと呼ぶことにする。
それには作品を人間として描かずに、自然現象として描けば可能なのではないか。
自分自身が自然現象になるしかないのだ。
自己の意思を一切排して、自然の力によって手を動かして作品を描く。
そのようにしてオートマチックに描き出した作品群がMural editionにある。
自然界と人間界との間に一線が引かれているのはなぜなのだろう。
人間は自然界から生み出された存在ではないからかもしれない。
このように考えていくと、これまでのアートの概念は覆されてしまう。
砂漠のど真ん中に四角い板のような巨大なモノリスを立てたとき、それはMuralとして目に映る。
それが自然界の物体ではないことは見てすぐに明らかだ。
自然物と人工物は、水と油のように混ざり合わないのではっきりと分離される。
このように自然界と人間界の間には完璧な境界が存在する。
すなわち両者の間には一線が引かれてしまう。
この事実は一体何を物語っているのだろう。
人間は自然になれないし、自然は人間にはなれない。
地球環境は二つの相に分けられる。
一つは自然の相で、もう一つは人間の相だ。
人工衛星から地球を眺めるとそれは一目瞭然だ。
地球上には数え切れないくらいの人工物がはびこっている。
人間の居住する地域(都市部)と自然の森は、相容れない姿で目に映る。
地球上に作り出された人工物は、地球外宇宙から観測すれば地球の物として目に映る。
人工物(モノリス)と自然物は明らかに異質であり、それらを創造した者の違いが垣間見える。
それゆえに自然物と人工物の相違は決定的なのである。
自然物は自然現象によって作られるのに対して、人工物は人間の意識によって作られる。
だから自然物と人工物の相違は、自然現象(自然法則)と人間の意識が根本的に異なるということを物語っている。
人間の意識は自然現象とは異なる次元にあることは分かったが、
人間の身体は自然の現象界に属していることも確かである。
私たちの身体はあくまで自然現象として存在している。
身体は自然界が作り出したものであって、人工物ではない。
だから人間は二つの空間にまたがって存在していることになる。
一つは意識の空間で、もう一つは現象の空間だ。
アルタナティブアートが存在するのは現象の空間であり、それを創造する主体は意識の空間にある。
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